『言葉の園のお菓子番 見えない花』ほしおさなえ|【感想】もうここにいない人を想うとき、言葉が、想いを運ぶ
連句を題材とした、ちょっと珍しい小説『言葉の園のお菓子番 見えない花』を見つけ即購入。
大切な人との思い出と新しい出会いが、ふんわりと優しい文章で描かれる。
まず、嫌な人間が出てず、登場人物全員が上品で人が好さそうで、穏やかに楽しめる一冊。
作中の連句の説明も全く固くなく、スイスイ読めてしまうし、中に出てくる和菓子が美味しそう。
あらすじ
祖母を失い、ついで書店員という職も失い、実家に戻った主人公、一葉は、祖母の遺したノートに導かれるように、連句会「ひとつばたご」へ顔を出すようになる。
タイトルの「お菓子番」とは、亡き祖母が毎月の連句会に、季節のお菓子を持ち寄っていたことに由来する。そして主人公も祖母の役割を引き継ぐように、同じお菓子を連句会に運ぶ。
連句との出会い
ざっくりものすごく荒く言うと、俳句を複数人でどんどんつなげていく、というものらしい。
みんなで、五七五を考え、次に、七七を、次に五七五を...という風につなげていく。
俳句と同じように季語があり、他にも、独特の決まりがあって、そのルールのなかで、句を考える。
このルールがなかなか面白くて、例えば、前の前の句が「場の句(人が出てこない句)」であれば、次は人が出てくる句が良いとされる、など、ちょっとしたゲームのよう。
というより、昔の人の遊び事だったんだなあ、と実感。
そういえば、和田竜『村上海賊の娘』で、武将というか海賊たちが輪になって、神社かどこかに連歌を奉納するシーンがあったような、なかったような。
連歌と連句はまた、違うものなのかしらん、と思いつつ無精なので、調べるのは今度に。
新しい仕事
主人公、一葉は連句会に通ううち、商品のポップをデザインする、という新しい仕事に出会う。
このあたりは、小説ならではのラッキーというかなんというか、現実、仕事にありつけず大いに悩んでいる身としては何とも羨ましい。
ただ、新しい仕事に向き合う姿勢が誠実で、前向きで、このあたりが自分と違うのだな、と自戒。
花のような人々
当初、祖母がお世話になったから、と半分お義理で顔を出した連句会で、主人公は年代も性別もまちまちな人と触れ合うこととなる。
その触れ合いのなかに、祖母と、祖母の友人ら、もういない人々の姿が、昔見た花のようにありありと立ち上がっていく。
-花を見ると、むかしの花を思い出す。
ふいに祖母の言葉を思い出した。
-いまの花だけじゃなくて、花の向こうに、去年の花、一昨年の花、ずっとむかしの花まで重なって見えてくるの。(p280)
もういない人々を想うとき、哀しみを越え、昔見た花を見るように温かい気持ちに包まれる。
主人公が最後つくる一句を読むとき、ほぅ、と息をついてしまった。
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蛇足として、もういない人々、といえば長田弘の『こんな静かな夜』を思い出す。この詩も大好き。
先刻まではいた。今はいない。
ひとの一生はただそれだけだと思う。
ここにいた。もうここにはいない。
死とはもうここにはいないということである。あなたが誰だったか、わたしたちは
思いだそうともせず、あなたのことを
いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
悲しみは、忘れることができる。
あなたが誰だったにせよ、あなたが
生きたのは、ぎこちない人生だった。
わたしたちと同じだ。どう笑えばいいか、
どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。
胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、
いったい確実なものなど、あるのだろうか?
いつのときもあなたを苦しめていたのは、
何かが欠けているという意識だった。
わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの
「Conversations With Myself」を聴いている。
秋、静かな夜が過ぎてゆく。あなたは、ここにいた。
もうここにはいない。 (長田弘 こんな静かな夜)
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