『偽詩人の世にも奇妙な栄光』四元康祐 | 【感想】模倣と独創の禁断の問いに挑む
今回ご紹介するのは、ミュンヘン在住の詩人四元康祐の小説『偽詩人の世にも奇妙な栄光』。創作とは何かという根源的な問いに挑みます。
あらすじ
おすすめポイント
・詩や小説など何かしらの創作を行ったことのある方
・ナンセンスな小説を読みたい方
四元康祐との出会い
四元康祐はミュンヘン在住の詩人で、はじめてこの方の詩に触れたのは、91年刊行の『笑うバグ』のなかの「受付」という詩だ。
皮肉で人を食ったような詩で、なんか性格悪そう(すみません!)というのが第一印象だった。
こんないやらしい(すみません!)詩を書くのだから、小説も面白いのではと思い、本書を取り寄せてみた。軽妙でこれまた皮肉なタイトルにも惹かれた。
面白かった。
独創と模倣の間
ここで、連想したのが、古川日出男『沈黙』に登場する戦後の映画興行師だ。大戦後の混乱に乗じ、洋画のフィルムを次々と手に入れた男(実は英語などできない)は、その画面と声以外の音から、独自のストーリーを作り出し、吹き替えを施すことを考える。もちろん、俳優が実際しゃべっていることなど、無視して無理やり吹き替えてしまうのだ。そして、それがストーリーとしては、画面と合っている。合っているから、客から文句は出ない。
『偽詩人の世にも奇妙な栄光』はおそらく「独創と模倣の違いとは何か」「そもそもが詩に、芸術に独創などあるのか」、という深いテーマを書いたものであるが、そういった高尚な問題に、ものをつくったことがない私は今のところ何も言うことがない。(アイヒマン裁判のように、その時その場にいなかった者が、当事者を裁かねばならない、とかいうややこしい場合は置いといて)ものをつくらない私に、独創も模倣も判別つきがたい。
なので、本書を読んでいる間、私はそういったテーマとは全く別のことを考えていて、それは、偽者であることで得る奇妙な自由のことだ。
『偽詩人』の主人公は、自分の詩を書こうと躍起になればなるほど、言葉と自意識の檻にがんじがらめにされ、自分の詩を恥ずかしさでまともに見ることもできない。
一方の『沈黙』の興行師も、語学の不自由さや世情の混乱から、正しい吹き替えなどつくれないし、正しく吹き替えたとしても、観客は見てくれない。
両者とも、オリジナルに忠実であろうとするうちは何も生み出すことはないが、一旦偽物に堕すやいなや、水を得た魚のように、自由闊達に言葉を操るストーリーテラーとなる。
その姿は、また、先日読んだ伝説の少女漫画家、竹宮恵子の自伝『少年の名はジルベール』の中の一説を思い出す。
若いころというのはその作家性をオリジナルだけに求めてしまいがちだ。自分にはそれができると信じているし、そうありたいとも思う。しかし今回はむしろ類型を積極的に取り入れ、それをどう崩すか、どうひねりを入れるかに躍起にならなければいけなくなるのである。 (p201)
上手く言えないが、全くの白紙からものを作り出すより、何かしら一定の枠があったほうが、不思議とあれこれ考えたりつくったりできるような、そんな奇妙な自由があるように感じるのだ。
多分、独創性というものがもし存在するなら、それはものがたりの「型」にあるのでなく、この「あれこれ考える」部分や「ひねり」の部分なのではないだろうか。
その意味でいうと、私は本書『偽詩人の世にも奇妙な栄光』の主人公吉本昭洋は、他人の型を借り物にしている偽詩人ではあるものの、その詩自体は本物だったのでは、と考えてしまう。
偽詩人の最期
模倣、独創、選べるのならもちろん誰もが独創を選ぶだろうが、彼は選ぶことなどできなかった。
偽物であることで得た一瞬の自由の代償を払うように、名声も、家族も、人生も何もかも奪い去られてしまう。
「こんな筈じゃなかった」と、死にゆく母は呟いた。
でも自分は違う。こうなるしかなかった。どう足掻いたところで、最後はこうなるほか術がなかった。これが運命だったのだ。(p138)
それでも、何もかも失っても、言葉は、はじめて「詩なるもの」と出会った13歳のときのまま、彼を離してはくれない。むしろ、彼は一人はぐれ、「詩と現実が、分かちがたく一つになった世界の根源」「詩の子宮」に回帰していく。
詩そのものとなるためには、少年は、人は、これほどのものを犠牲にしなくてはいけないのだろうか。
詩とは何なのか、脳が揺さぶられるような不思議な読書体験でした。
今回ご紹介した本はこちら