書にいたる病

活字中毒者の読書記録

『武士の娘』杉本鉞子 | 【感想】今だから読みたい、激動の時代に見事に自立して生きた一人の女性の半生

今回ご紹介するのは杉本鉞子武士の娘です。

IT化、高度情報化、コロナ禍と何かと変化が多いと言われる現代ですが、かつて、今よりも更に激動の時代「明治」がにありました。

それまでの社会構成が天と地がひっくりかえったかのように変わった明治維新の激動のただなかに生まれ、更に結婚によりアメリカへと渡った一人の女性がいました。

自らの価値観を激しく揺さぶられながら、己を見失うことなく、かつ内に閉じることなく、稀に見る精神力で時代を泳ぎぎったその考え方に、今こそ学ぶときなのではないでしょうか。

あらすじ

 著者杉本鉞子は、明治維新のただなかの1873年明治6年)に越後長岡班の家老の家に生を受け、武士の娘として厳しい躾と教養を修めた。長じて、結婚によりアメリカにわたり、二女を設けたが、その後夫と死別。武士の娘としての自己を失うことなく、新しい文化に心閉じることなく、凛とした生き方を貫いた。日本、アメリカにまたがった半生を綴ったこの文章は雑誌『アジア』に連載され、ドイツ、フランス、デンマークスウェーデン等で翻訳され高い評価を得た。 

 

おすすめポイント 

・女性としてどう生きるべきかヒントを得られます。

・当時の習俗や生活などが具に記された貴重な資料です。

・激しく動く時代に生きる方法のヒントが得られます。

幼少期の厳しい躾

親の厳しい躾といえば、幸田文著『幸田文しつけ帖』などが思い出されます。幸田文も父、幸田露伴に厳しい躾を受けたことで知られていますが、幸田文の生まれが1904年(明治37年)と、杉本鉞子とは30年近く年が離れていることとなります。

また、1867年生まれで杉本鉞子とは6歳違いの幸田露伴は幼少期、寒さに耐えかねて袖に手を入れていたところを母親に見つかり、それは厳しい折檻を受けたといいます。

このように、明治初期に生まれた子供たちが、どれだけ厳しい躾を受けて育てられたのか、令和に生きる私たちには想像の及ばぬところがあります。

例えば、本書の中でこんなことがあります。

当時六歳の著者は家の菩提寺の僧侶に四書を師事していたのですが、ただ一度講義中に体を少し動かしたことがありました。「ほんの少し体を傾け、曲げていた膝を一寸ゆるめた」途端、

「お嬢さま、そんな気持で勉強はできません。お部屋にひきとって、お考えになられた方がよいと存じます」

ぴしゃりと叱られてしまいます。

勉強をしている間は、体を楽にしないこと、それがこの時代の考え方なのです。

今では少し受け入れ難い部分もありますが、修養に臨む際のキリリとしたこの態度は今でも見習うべき点かと思います。

 

明治維新後の新風と渡米、揺れ動く武士の娘としての生き方

著者の人生には二つの猛風が吹き荒れます。

一つは維新後の社会変動で、人々の生き方考え方も変わらざるをえなかったことです。

それまでお金のことをあれこれ考えるのは武士の恥とされていましたし、商売をするなどもってのほかでした。そうやって長年生きてきたのですから、そうそう考え方を急には変えられません。著者の祖母、父母はまだまだ保守的な考えを固辞していました。一方アメリカ帰りの兄は進歩的で、結局兄の友人に嫁ぐ形で著者の渡米は決定します。

二つ目は文化の全く異なる米国に嫁がなくてはいけなくなったことです。著者は、渡米前に英語を学ぶため、東京のミッションスクールに通いますが、古い考えと新しい考えの衝突に悩まされます。

実家で学んだ厳しい作法から見ると、東京のミッションスクールの教師や生徒が無作法に見えてしまい、著者は戸惑います。また、仁義礼智信を重んずる旧来の価値観が学校では通じず、代わりに与えられた神の愛という概念がなかなか咀嚼できず悩んだりもします。

しかし、著者は徒にどちらかを批判して自分から取り払ってしまおうという安易な選択には走りません。

思想も言語と同様に、ある国では率直で平明であり、他の国では、漠然と神秘的、夢幻的であるということに思い至りました。 (p161)

竹のようにしなやかに思慮深く、身の内の西洋と東洋の価値観の衝突を受け流していきます。

これは、当時の女性として、また現代に照らし合わせても、かなり柔軟な考えを持っていたといえるのではないでしょうか。

著者の考え方は、ミッションスクールの先生の次の言葉に象徴されます。

(老い朽ちた老木から生え出た桜の若木を指し示して)

「この桜の樹はちょうどあなた方のようなものですね。古い日本の立派な文明は今の若いあなた方に力を与えているのです。ですから、あなた方は勢よく大きくなって、昔の日本が持っていたよりも、もっと大きい力と美しさを、今の日本にお返ししなければなりません。これを忘れないようになさいね」 (p172)

渡米後、更なるカルチャーショックに見舞われる著者ですが、異国の召使の仕事ぶりを好奇心旺盛に観察したり、近隣の婦人と旺盛に付き合ったり、相手の文化を拒否せず、かといって迎合もしない凛とした態度で、多くの知古を得た様子が伺えます。

明治における主婦の役割についての興味深い記録

これまで、私は明治時代の封建的父権社会というものは、主婦は家族の一番下に置かれ、一家の長である父が上座にふんぞり返っている、というテンプレな印象を持っていたのですが、本書を読んで少し考え方が変わりました。

著者がアメリカに渡り、最も驚いたことの一つが「婦人と金銭に対する不真面目な態度」であったといいます。

当時のアメリカでは、婦人がちょっとお金が入用なときは、普段からへそくりを貯めたり、夫に上手く言い訳をして借りたり、といった様子だったようですが、著者はこの様子にひどくショックを受けます。

女は一度嫁しますと、夫はもちろん、家族全体の幸福に責任を持つように教育されておりました。夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司どっていました。(中略)それらのための収入は、いうまでもなく、夫の働きにより、妻は銀行家になるわけです。

つまり、主婦は家の一切を切り盛りする責任を負い、その点に関しては夫もおいそれと口を挟めない、というわけです。

男は外、女は内、という古い考えは今日の社会にはすでにそぐいませんが、在りし日の女性たちは、低い地位に押し込められていたのではなく、「女として」という括弧付きではあるものの、立派にその手腕を発揮し、家の奥向きの代表として社会と渡り合っており、主婦の地位は決して思うほどには、低くはなかったのではないでしょうか。

家事が機械化され家族構成が単純化するに従い、家の奥向きでの仕事や行事が激減し、それに伴い主婦の地位も低下していったのではないでしょうか。

東洋西洋にかくされた秘密

本書は1925年に刊行され、米国でベストセラーとなったそうです。

珍妙なアジアの小国の習俗が当時の米国人のオリエンタル趣味をくすぐったことや、非西洋人が西洋文化に触れる、というストーリーがウケたことなどが要因として挙げられるでしょう。

しかし、非西洋人が発達した西洋文化に触れ感銘を受ける、という凡夫が想像するようなストーリーは本書には存在しません。

本書は東洋西洋二つの文化が稀有な日本人女性の精神中で融合する様が描かれた記録なのです。

夫を若くして亡くし、娘二人を抱え、まだアジア人に理解のない時代のニューヨークで、嫌な目にも人にも沢山会ったであろう日々を、著者はこう締めくくります。

西洋も東洋も人情に変りのないことを知ったのです。けれども、これはまだ大方の東洋人にも西洋人にもかくされた秘密なのです。(p378)

私たちはその秘密を今、知ることができているのでしょうか。

今回ご紹介した本はこちら


武士の娘 (ちくま文庫)

 

ブログ中にふれた幸田文著『幸田文しつけ帖』はこちら


幸田文しつけ帖