芥川賞を全作読んでみよう第2回 | 受賞作なしの裏側で躍動する歴史のドラマ
芥川賞を全作読んでみよう第2回は、第2回にしてなんと”受賞作なし”です。
ちょっとがくっときましたが、色々調べるうち、その裏側にはうねる歴史と人間のドラマがあることに気が付きました。
結構面白かったので、今回は、そのあたりを書いていきたいと思います。
芥川龍之介賞について
芥川龍之介賞とは、昭和10年(1935年)、文藝春秋の創業者・菊池寛によって制定された純文学における新人賞です。
受賞は年2回、上半期は、前年12月から5月までに発表されたものが対象、下半期は、6月から11月までに発表されたもの、が対象となります。
第二回芥川賞委員
菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作、横光利一、川端康成。
第二回受賞作・候補作(昭和10年・1935年下半期)
手元にある文藝春秋刊行『芥川賞全集』によると、第2回は7月~12月までに発表された作品の内から選ぶことにした、とありますので、今とは対象期間が1ヶ月ずれていたようです。
二・二六事件との遭遇
第一回芥川・直木賞委員会を、二月二十六日二時よりレインボウ・グリルに開く。恰も二・二六事件に遭遇したので、瀧井、室生、小島、佐々木、𠮷川、白井、の六委員のみ参集、各自の意見を交換した。
𠮷川、白井は直木賞委員であった𠮷川英治、白井喬二なので、芥川賞委員として集まったのは11人中4人だけだったということになります。
4人だけでは、おそらく大した話はできなかったんじゃないかな~、と思います。
ただし、二・二六事件に遭遇したことで審査が中止になった、というわけではなさそうです。
おって、第二回委員会が3月7日に同じく レインボウ・グリルで開催され、このときは11人中8人が参加しています。
この第二回の詮議において、上に挙げた候補作が挙がったようです。
しかし、委員中に未読の者もいたので、3月31日までに各自読んで推薦文を書き、これを投票の代わりとすることにしたようです。
しかし、これが受賞作なしの結果につながってしまいます。
各選評委員の推薦作と波乱
各選評委員の推薦作をざっとまとめると以下のようになります。
ものの見事に票が割れてしまった形になります。
決定的推薦文を認めて之を投票に代える事にして解散した処が、別掲の如き結果を生み、ついに芥川賞は今回に限り受賞に該当する者がなかった。
ちなみに直木賞のほうは全委員一致で、鷲尾雨工『吉野朝太平記』に決定したようなので、第二回の芥川賞は全員が推すような突出した作品が無かったということなのかもしれません。
詮議の裏に潜む人間ドラマ
私が興味深いな、と感じたのは、選評委員の一人、瀧井孝作の推薦文です。
他の選評委員の推薦文が500字~800字ほどあるのに対し、瀧井の推薦はたったこれだけです。
川崎長太郎君を推す。川崎氏を推す迄には種々経緯もあるが、今は父の死に会って飛騨へ急いでいるので、何も書いていられない。次号にでもゆっくり書く。(談)
1936年は岐阜県高山市の指物師であった瀧井の父・新三郎が死去した年です。
父の死に急ぎながら、とりあえず仕事だけは最低限済ましておく、そういう焦りが字面から感じられるようです。
選評委員も人間なので、裏側ではいろいろなことが起こっているんだな、と改めて考えてしまいました。
さて、ここでちょっと、考えてみたことがあります。
第一回において、瀧井は久米正雄から「見渡したところ瀧井が一番閑がありそうだから」という理由で、候補作の絞り役に抜擢された経緯がありました。
そして、父の死という大事にあたっても、推薦作について一声かけておくという行為から、当時、瀧井は委員のなかでも弱年だったのではないか、と思いました。
そこで、1936年3月31日当時の委員の年齢(満年齢)を調べてみました。
最年少は、当時36歳の川端康成で、その次に若かったのが、37歳の横光利一、その次が41歳の、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作となります。
どちらかといえば、委員のなかでは若いほうとも言えますが、最年長で賞の創業者である菊池寛が47歳で最年少の川端康成とは11歳の差しかないので、芥川賞委員全体が、同年代で運営されていた、といったほうが良い気がします。
どちらかといえば年少なので気を使った可能性も捨てきれませんが、仕事に関して真面目な方だったか、当時まだ知名度の無かった芥川賞の運営について責任感があった、と解釈したほうが良さそうです。
仮定は外れましたが、なかなか興味深い結果だったので満足です。
瀧井孝作の代表作
今回取り上げた瀧井孝作の代表作はこちら