『インドラネット』桐野夏生 | 【感想・ネタバレなし】卑小さを突き詰めた人間の切なさと東南アジアの深い闇が融合する現代の黙示録
政情不安が日常に根付くカンボジアを舞台に、コンプレックスの塊のような卑小な男が、人生のたった一つの光を切ないほど追い求めた成れの果てを見せられました。
異国情緒豊かな描写、濃ゆい登場人物、振り回される情けない主人公、どろどろの話なのに、何故か神話の世界を垣間見るような神々しさが文章にあります。
読後、無性に切なくて胸をかきむしりたくなりました。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
東南アジアの風景の描写がリアルで旅をしているような気分が味わえます。
主人公の情けない性格に苛立つ感情が、次第にどうしようもない切なさへと変っていきます。
カンボジアの政情が物語の根底にあり、少し勉強になります。
情けない主人公への苛立ち
この小説を読み通す際にまず立ち向かわなくてはいけないのが、”主人公にイライラさせられる”という点です。
非正規雇用・低賃金で仕事にやる気がない、まではギリギリ許せるのですが(よくあることなので)、女性への差別的言動(「ほとんどの女は、ものごとを大局的に見る能力に欠けている」、「50歳以上の女は、おばさんがおばあさんとしか思えない」等の思考)、どうしようもなく愚鈍でだらしのない性格、なんでこんな奴が主人公なんだ、とちょっと苦痛にさえなります。
高校生時代の親友でカリスマの空知を探しに、カンボジアに旅立つ際も、捜索援助として100万円近い金額を受け取っているのにも関わらず、パスポートを取ったり、チケットを手配したりが面倒で二週間もゲームをしてダラダラ過ごした挙句、援助金を出している三輪という男に恫喝され(そりゃそうだ)、縮み上がってやっと日本を飛び出します。ふう……。
しかし、彼の愚鈍さは留まることを知らず、多額の現金(30万円!)が入った荷物を東南アジアの安宿に置きっぱなしにし(当然盗まれ)、知り合った女性を憶測で犯人扱いするも論破され、現地で成功している事業者・木村の邸宅に拾われるも、そこでまたもや無為にダラダラ過ごし(なんでや!)、体よくパスポートを奪われてしまいます(!)。
もうなんかやることなすことアホ過ぎて、なんでこんな奴が主人公なんや!(2回目!
)、と呆れてしまいます。
というか読者だけでなく、登場人物全員から呆れられています。
誰かの影として生きる切なさ
そんな情けない主人公にイライラさせられながら、最後まで読み通してしまったのは、コンプレックスと劣等感の塊のような彼が、切ないほど親友の空知に恋焦がれているからです。
もしかすると、自分は、空知のネガティブな夢に出てくる小人物で、八目晃という人間は、現実には存在しないのではないかと。
自分は、空知の夢、もしくは影だという彼は、自分の主体であり光である空知を神格化し、崇拝し、それ故に彼の姉妹にも(勝手に)偶像性を求めます。
しかし、いまだ政情不安が尾を引くカンボジアで彼が見たものは、誰もが誰かの影として生きるしかない、いや、人間は誰かの光や影などにはなれない、という彼にとっては悲劇的現実でした。
それでも、どんな厳しい現実を突きつけられても、彼は空知の影であることを全うしようとします。
そこには、誰かの影として生きるしかない人間の切なさがあります。
主人公は、確かに怠惰で鈍感で卑小ですが、卑小さをひたすら愚直に貫くが故に、そこにはある種の聖性が宿ります。
卑小な主人公への苛立ちは、やがて卑小な”人間という生き物”への切なさと憐みへと姿を変え、読者はそこに東南アジアの混沌に君臨する神々の巨視的な眼差しを見ることができるのです。
現代の黙示録といってふさわしい作品でした。