『自転車泥棒』呉明益 | 【感想・ネタバレなし】あの自転車はどこに消えたのか、父の自転車を追う旅はあの戦争の密林の奥地へと入っていく
今日読んだのは、呉明益『自転車泥棒』です。
2018年国際ブッカー賞候補作となった作品らしく、多言語的で幻想的な独特の読み応えがありました。
私は文庫で購入したのですが、挿入される自転車の精緻なイラストが美しく、これだけでも購入の価値があると思います。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
あの経験し得ぬ時代をなつかしむのではなく、無限のイマジネーションによって修復し語りなおすために……。
おすすめポイント
・最先端のアジア文学に興味のある方におすすめです。
・幻想小説やマジックリアリズム小説が好きな方におすすめです。
なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。
私たちが経験し得ぬ時代に
小さい頃に、親戚の集まりか何かで散々自分の知らない時代の苦労話を聞かされた挙句、「今の子にはあの苦労は分からん」と決めつけられて膨れた経験が誰しもあると思うのですが、この小説は、自分の経験しなかった時代を”成仏”させるための物語、と言えるかもしれません。
語り手の「ぼく」は貧しい家庭の年の離れた末っ子で、家族の辿った歴史を「ぽつんと眺めているしかなかった」子供です。
貧しく苦労した家族の過去を散々聞かされた挙句、「あんたにはわからん」とか「恵まれっ子」と一蹴されてしまうのです。
どうして自分だけが、「恵まれっ子」などという汚名を着せられるのか?
そうした経験から「ぼく」は、家族の話からかつてあった歴史を文章として「再構築」し、「自分もそこで生き直す」という方法を編み出します。
しかし、始終寡黙なまま失踪してしまった父については、その過去を再構築する術がなく、父の歴史はそこで断絶しています。
父の失踪とともに失われた自転車を追う「ぼく」は、様々な人物、古物商のアブーやコレクターのナツさん、写真家のアッバス、老婦人の静子さん、に出会い、物語は幼少期の商場の記憶から戦時下の台湾、東南アジアの深い森へと時空を超え膨張していきます。
長い沈黙のあと、彼女はやっと口を開いた。「戦争には、なつかしいことなどひとつもありません。でも、こんな年になってしまうと、私たちの世代で覚えているもの、残されているもの全部、戦争のなかにある……」彼女はおもしろくもないのに、笑いを添えて言った。「だから戦争に触れなければ、話すことがなくなってしまう」
自転車と深い森と言語について
本書で印象的なのは、挿入される美しく精緻な自転車のイラストです。
ちなみにこの挿画は著者自身の手によるものだそうです。多才すぎる!
それには、それぞれ名前が書かれていて、「富士覇王号」だったり、「幸福印英印スポーツ車」だったり、「幸福印文武車」だったりします。
白黒でスッキリと描かれたイラストとその明快な名称は、自転車の機能的で硬質な美しさを際立たせます。
その硬質な美しさと対照的に繰り広げられるのが、戦時下の東南アジアの深く恐ろしい森の情景です。
その森は「豊かだが、飢えた森」であり、悪霊と死者が交錯する生臭い土地なのです。
森の描写は生々しくグロテスクです。
昼は追撃弾と機関銃が太古の森を揺らした。夜は照明弾が暗闇を真昼にした。密林のアリは、バッタのように大きく、大アゴで皮膚に食いつく。すると火に焼かれたか、針で刺されたような痛みがあった。ネズミはなんでも食べる。軍服、下着、靴下、靴ひも、ベルト、そして耳。毒薬ですら迷わず飲み込むだろうと私は考えた。ゴキブリは、熟睡している口から唾液を吸い、軍靴に潜んで足の爪や傷口、ただれを食べる。極度の疲れから深い眠りに落ちてしまえば、アリやネズミの集団に食べつくされてしまうから、我々はゾウに倣って、立ったまま順番に眠った。
人間が生きるには深すぎる森、冥界により近い森がそこにはあります。
そして森の複雑さと呼応するように、物語る言葉も複数の言語を複雑に行き来します。
台湾語、中国語、日本語、ツォウ語、カレン語、異なる言語が混交する様は、まるで安易に理解されることを、シンプルな解釈を拒否するかのようです。
まさに言語こそ、私たちが内側に持つ深い森そのものであり、歴史の刻印だということを本書は想起させます。
その事実が、序盤のある一説に象徴されています。
台湾で今「脚踏車」という単語が指すものを、もし「自転車」と言ったなら、それは戦前台湾の日本語教育を受けた人だろう。「鐵馬」や「孔明車」と言うなら、その人は母語は台湾語ということになる。「単車」や「自行車」という単語を口にすれば、おそらくは中国南部からやってきた人たちだろう。もっとも今は、それぞれが交じり合って、明確な区別はなくなってきている。
複数の文化的背景、多言語的世界観、豊富なイマジネーションによる豊かでグロテスクな描写、アジア文学の最先端に恥じない文学作品でした。
他の翻訳もぜひ読んでみたいです。
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