『もう泣かない電気毛布は裏切らない』神野紗希 | 【感想・ネタバレなし】俳人であり新妻であり母であり…他愛のない日常がきらめく今を生きる俳人のエッセイ集
今日読んだのは、神野紗希『もう泣かない電気毛布は裏切らない』です。
1983年生まれの現代に生きる女性であり、妻であり母であり、俳人でもある著者がどのように日々を綴るかに興味を惹かれ、読み始めました。
結婚、夫との日々、幼い息子の眼差し、俳句への想い、他愛のない日常が、要所要所で引用される俳句と共にみずみずしく綴られており、”俳人”と聞いてちょっと身構えていた心が解きほぐされていくようでした。
それでは、感想を書いていきます。
あらすじ
幼い息子の透明な眼差し、母乳の色、マリッジブルーの夫、蜜柑、コンビニのおでん。
俳人であり、現代を生きる女性であり、母である、妻である著者が綴る他愛のなく愛おしい日々。
「いつか来る、本当の最後の日まで。豚汁を啜って、蜜柑をむいて。なんでもない、当たり前の光を重ねてゆこう。(本文より)」
おすすめポイント
・俳句というと身構えてしまう方にこそおすすめです。
・ほっと一息つけるような読書をしたい方におすすめです。
母として
子どもを産んでから、よく「母になってどんな変化があった?」と聞かれる。俳句に向き合うスタンスや作る俳句に、おのずと変化が現れるのでは、と考える人が多いようだ。
妻になっても、母になっても、何か違うものにトランスフォームするわけではないのですが、周囲はついつい変化を求めてしまうようです。
自分が変わる、というより周囲の見方が変わってしまうようです。
著者は続く文章で「変わることよりも、変わらないでいることのほうが、存外難しい」とため息をつきながら、一方、母である自分、妻である自分を相対化し興味深げに眺めているふしがあります。
息子の保育園の申込書の職業欄に「俳人」と書き、胡散臭いなあ、絶対落ちるな、と思う話など、こちらもクスリとしてしまいます。
この相対化について興味深いエピソードが引かれています。
結婚についての筆者の句を引用されたエピソードなのですが、元の句とは少し違った形で引用された、というものです。
〔原句〕新妻として菜の花を茹でこぼす
〔引用〕新妻となりて菜の花を茹でこぼす
引用では、筆者が”新妻”になってしまっていますが、元の句では、”新妻”なる肩書がついた自分を客観的に面白がりおどけている風情があります。
俳句の「俳」の字は、演じるとかおどけるとか、行きつ戻りつするという意味をもつが、完全に新妻であるというよりも、新妻の私と別の私を行きつ戻りつしながら生きているというほうが、現実に即している気がしている。
~の奥さんや、~くんのママなど、人生が進むにつれ、増えていく肩書に少しおどけながら、軽やかに「行きつ戻りつする」態度が新鮮で、これが、ものごとを客観的にとらえることに慣れた”俳人”の視線なのかな、とちょっとそわっとしました。
子どもについて
本書の多くの部分に、筆者の幼い息子の存在が光ります。
私は実は小さい子どもというのが、何となく苦手なのですが、というのは実は正しくなく、小さい子どもの言動を、「~したいのかな~? かわいいねえ」「やっぱりパパとママが好きなんだねえ」と自分の解釈したいように解釈し屈託ない”大人”が苦手なのですが、本書はそんな私のなんとなくモヤモヤした思いを”俳句”という写生の文学のなかで見事に言い表してくれました。
正岡子規の句を引用しながら、写生とは「大人が子供を視るの態度」であること、つまり対象に感情移入せず淡々と客観的な態度を保って読むことで対象の存在を際立たせることを解説します。
逆に、対象に共感し感情移入するとどうなるか。どもすれば次のような句になりかねない。
〔悪例〕瓜の花母がいなくてさびしい子
〔悪例〕昼寝の子風が手招きしてをりぬ
その子にしか分からない感情を「さびしい」と簡単な言葉で代弁してしまったり、子どもの心などおかまいなしに、風を手招きしているようだと、自分の論理に引き寄せて比喩したり。
共感するふりをして他者の思いを代弁してしまうことは、他者を自分に置き換えて理解しているだけで、結局、他者を無視しているのと変わらない。
そうそう!、そうなんです!
と膝を打ちたくなりました。
動物や小さな子供への接し方で、本人は可愛がっているつもりでも、可愛がりたい自分を押し付けているだけで、相手を尊重していない態度は、何となく見ているこちらを「???」の気分にさせるのですが、本人や周囲の認識は「動物好き」「子ども好き」なので何も言えないもやもやした感情だけが残っていました。
”俳句”というあまりなじみのなかった文学のなかで、この感情が昇華されるとは思わず、思わぬ収穫となりました。
やはりエッセイは面白い!
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