『村田エフェンディ滞土録』梨木香歩 | 【感想・ネタバレなし】国とは一体何なのか。かけがえのない友と青春の日々を綴るトルコ滞在記
今日読んだのは、梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』です。
同著作の、『家守綺譚』『冬虫夏草』に登場するトルコ留学中の村田君が主人公です。
1899年、西洋と東洋の狭間の国・トルコに留学した村田君は、異教の友人らと議論したり、掘り出した遺跡に目を輝かせたり、鸚鵡の言動に振り回されたり、神様の喧嘩に巻き込まれたり、騒がしくも楽しい青春の日々を過ごします。
しかし背景には、不平等条約下にあった当時の日本や、跋扈する帝国主義の暗い影、いずれ訪れる戦争の予感がしのびよります。
異国の友とのきらめくような日々を描き、イスタンブールという西洋と東洋が混じる不可思議な土地、その歴史の一場面のなかに、国とは一体何なのか、を読者に問いかける稀有な青春小説です。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
西洋と東洋がせめぎ合うイスタンブールで過ごした、かけがえのない青春の日々。
私たちが所属する国とは一体何なのか、今に問う青春小説にして歴史小説。
おすすめポイント
・第一次世界大戦目前の日々を青春小説として切り取ったなかなか無い小説です。
・読後、懐かしいような哀しいような言いようのない複雑な気持ちにさせられます。
・西洋的な考えと非西洋の考えの比較など、興味深い議論が多く、勉強になります。
時代背景
舞台は、1899年のトルコ、イスタンブールです。
西洋では帝国主義が跋扈し、新大陸の国々が次々に植民地化され、日本は西洋諸国と結ばされた不平等条約改正に向け、国力増強の道を模索し前に前に進もうと躍起になっている時代です。
そして、1914年にはサラエボ事件に端を発する第一次世界大戦が待ち受けており、村田君がイスタンブールで異教の友人らと過ごした青春の日々は、大いなる戦争を目前とした束の間の安堵句をと言えるでしょう。
また、トルコと日本の仲を深めたエルトゥールル号の事件が1890年なので、村田君のトルコ留学もそれよって叶ったものかもしれません。
国際色豊かな登場人物
主人公・村田君は考古学を学ぶために派遣された学者で、イギリス人のディクソン夫人が営む下宿屋に居を構えています。
下宿屋には、他に、ドイツ人考古学者のオットー、ギリシャ人の研究者・ディミトリス、トルコ人の下男・ムハンマド、そしてムハンマドが拾ってきた鸚鵡が一緒に暮らしています。
西洋と非西洋、一神教と多神教、理性と混沌
登場人物はそれぞれ西洋と非西洋、一神教と多神教、理性と混沌を交互に複雑に象徴します。
一神教と多神教という側面で見ると、キリスト教徒であるディクソン夫人とオットー、ムスリムであるムハンマドが一神教にあたり、ギリシャ神話を背負うディミトリスと日本人である村田君が多神教の側になります。
しかし、オットーは神や信仰をあくまで近代的な歴史観のなかに捉えていて、神を唯一絶対の不可侵とするディクソン夫人やムハンマドの考えと時に衝突します。
また、葬式は寺、お祓いは神社と、いかにも日本人らしい宗教観を持つ村田君は、宗教間の違いを上手く説明できず困惑したりします。
また、混沌たる自然に対して支配的な(あるいは無視的な)”西洋たるもの”を根本に覗かせるディクソン夫人とオットーに対し、理論で説明できない巨大な闇を内包する”非西洋たるもの”を、ムハンマド、ディミトリス、村田君はそれぞれ背負います。
”違う”人間と友になるということ
同じものを見ていても、登場人物らはそれぞれ違った反応を示します。
特に次のエピソードがほほえましいなかにも、鋭く胸に刺さります。
雪の日、さんざん雪合戦をしたあと、オットーが高校時代の昔話を語るのですが。
ー俺たちのギムナジウムと隣町の商業科高校は、ずっと反目し合っていたんだが、何かの加減で比較的友好的な時代があった。休日に町を歩いていると、通りかかったアパートの窓から雪玉が投げつけられた。そのアパートは商業科高校の生徒の家だったことは皆知っていた。俺たちは一瞬緊張したね。挨拶としては随分手荒じゃないか。またもや宣戦布告か? しかし一人が素っ頓狂な声を上げた。「おい、キャンディーだぜ」崩れた雪玉の中から人数分のキャンディーが出てきたんだ。
ーいい話だなあ。
私は思わず感嘆した。
ーそう単純でないよ。投げられた雪玉にはやっぱり攻撃性があるんだ。
ディミトリスの物憂げな言葉の調子で、彼が眉間に皺を寄せているらしい様子が察せられた。オットーは、
ーそうなんだ。俺が感じたのは、そのときはまだ子どもではっきり言葉でそう思ったわけではないが、文化的な「したたかさ」みたいなものだ。それは、洗練、というものとはまた違う、泥臭い土着の知恵のようなものだ。戦略的、とでもいうか。
似たようなことを言っているように聞こえるが、ディミトリは繊細で直感的、オットーがそれとはほど遠く、ただ単にどんなときでも理が先行するだけだ。そして私はと言えば、
ーいや、やはりいい話だ。僕は雪玉の中にあめ玉が仕込まれていた経験など全くない。うらやましい限りだ。
自分で言いながら、おめでたさに呆れてしまう。
これほど、違う考えを持った者同士ですが、3人は楽しく雪合戦をし、お互いを思いやり、尊重し、友情を育みます。
オットーは遺跡から誰もが見逃していた遺物を発見した村田君を手放しに褒めたたえ、ディミトリスは村田君の病気の同輩のために醤油を手に入れ、偶像崇拝を忌み嫌うムスリムであるはずのムハンマドは、稲荷の札とキツネの根付に対し黙礼によって敬意を示します。
本当にこういうことだけ、こういうことだけ話していられる世界であればどんなに良かったか。
最後に書かれるディクソン夫人から村田君にあてた手紙とその嘆きは、これからどうしようもなく悲しい報せを受けるたび、読者の胸に蘇るでしょう。
ああ、私はこういうことだけ延々に書いていたい。鸚鵡が何と言ったか、とか、オットーが何に笑ったか、ムハンマドがどうして腹を立てたか、そういう日常の、ごくごく些細なことだけを。
時代は、歴史は、異なる文化を超えて結ばれた友情を、親愛を、何もかもを引き裂き、ただ頑なに前へ前へと進んでいくのです。
西洋と東洋の狭間の小さな下宿屋で、それぞれが違ったものを背負っていても、確かに尊敬と友情は結ばれたはずだったのに、なぜ、と問わずにおられません。
そして、本書が訴えかけることも、まさにそれなのでしょう。
私たちは、お互いを尊重できる。
しかし、それを時に切り裂いていく、”国”とは、一体何なのか。
読後、長い友を喪ったような放心状態にしばし囚われました。
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