『地球にちりばめられて』多和田葉子 | 【感想・ネタバレなし】言語の可能性が仲間を繋ぐ、国からの解放を朗らかに謳いあげる冒険譚
今日読んだのは、多和田葉子『地球にちりばめられて』です。
この著者は海外で高い評価を得ている、と聞いていたので、小心者の読者としては、気にはなるものの、なんか難しそう、と少々敬遠していました。
が!、最近、芥川賞の過去受賞作を順々に読み進めていることで、なんか変なモードに入っていて、とにかく何でも読んでみよう!、と遂に手に取りました。
この本を選んだ理由は、たまたま書店に並んでいたから、というのもあるのですが、最近読んだ、梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』で、国って一体なんなんだろう、という感傷に浸っていて、国を失った主人公が仲間とともに自分と同じ母語を話す者を探す旅に出る、という設定に惹かれたからです。
『村田エフェンディ滞土録』の感想はこちら
この本を読んだことで、母国とは、国境とは、という問いに一定の答えを得られたように思います。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
・多言語的な小説に興味のある方におすすめです。
・国という枠組みが窮屈に感じつつある方におすすめです。
「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」
本書には、実に多様な言語を話す人々が登場します。
英語、ドイツ語、デンマーク語、ノルウェー語、フィンランド語、フランス語、etc.
特に面白いは、留学中に故郷の島国が消滅してしまったという女性・Hirukoが、移民としてスカンジナビア地方の各国をめぐるうちに編み出した独自の言語〈パンスカ〉です。
彼女によると〈パンスカ〉は、スカンジナビア地方なら聞けばなんとなく意味が伝わるといいます。
〈パンスカ〉で話すHirukoと、言語学を研究する青年・クヌートとの会話は、独特のリズム感があり、読んでいるだけで心が弾むような対話が持つ本来の喜びがあります。
「コペンハーゲンに住んでいるんだっけ?」
「いいえ、オーデンセに棲息。でも今日は宿のシングルが予約されているので、腕時計を見る必要なし。」
また、彼女にとって〈パンスカ〉は、移民として最低限のコミュニケーションを確保する、という意味以上の価値を持っています。
例えば、失われた母国の言葉で、「なつかしい」と発した後に、
自分で言っておきながら「なつかしい」という言葉は霧でできているようで、その霧の中をわたしはおぼつかない足取りでふらふら彷徨っているのだった。自家製の言語パンスカを話している時のほうがずっと足元が確かだ。パンスカならば、「なつかしい」と言う代わりに、「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」という風に表現したかもしれない。そう言ったほうがずっとピンとくる。
「なつかしい」という言葉を使うことで、本来もっと豊かであるはずの感情が、「なつかしい」という枠に収束し嵌め込まれてしまうのかもしれません。
〈パンスカ〉で話している限り、Hirukoはむしろ自由でいられるのです。そして、〈パンスカ〉によって、クヌートをはじめとする仲間と次々繋がっていける。自由だけれど、孤独ではない。
「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」
国、母なるものからの解放
読み通して思ったのが、国というのは母親のようだ、ということです。
クヌートの母親は、クヌートに対して、少々干渉気味に描かれます。
また、彼女はグリーンランド出身の青年に個人奨学金を出しており、彼に対しても、母親的に振る舞おうとします。
それは、産み育んだのだから、口を出す権利がある、と暗に仄めかしているようでもあります。
先日、梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』を読んでから、私たちは国を超越し友情をはぐくめるはずなのに、それを時に切り裂いていく、”国”とは、一体何なのか、と感傷的になっていたのですが、本書から、国とは、私たちを守り育み、それ故に永遠に束縛しようとする”母なるもの”のようだ、思いました。
私たちは、産み育み守ってくれたが故に、自然と故郷を愛し、母国を愛しますが、その愛ゆえに、どうしようもなく利用されてしまうことがある、ということなのかもしれません。
しかし、本書は、消滅した母国を持つHirukoと彼女の旅に加わる仲間たちを描くことで、朗らかに”母親”からの解放を謳いあげます。
もういい、今まで守ってくれて、育んでくれて、だから、もういい、もう守ってもらわなくても、私たちは自由になれる、地球にちりばめられた仲間と。
今回ご紹介した本はこちら