書にいたる病

活字中毒者の読書記録

『ことばの果実』長田弘 | 【感想・ネタバレなし】世界はまだ信じるにあたいするのだと。希代の詩人が遺した心洗うことばの果実たち。

今日読んだのは、長田弘ことばの果実』です。

2015年5月に永眠された希代の詩人のエッセー集です。

「苺」「さくらんぼ」「甘夏」「白桃」「スイカ」……

タイトル通り、四季折々の果実が各章のタイトルになっていて、目次を見るだけで宝箱を覗くようにドキドキします。

四季を愛する穏やかなことばのなかに、ハッとするようなことばが効いていて、尊敬する恩師や祖父と縁側でしゃべっているような、のどかさと緊張感がほどよく混ざった心地よいエッセーです。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

美しいカラー挿絵と共に綴られるささやかな日々の果実、花実を掌にそっと包む至福。四季の豊かさと本当のことばを信じた希代の詩人が紡ぐ清新な魅力を放つエッセー集。

おすすめポイント 

長田弘の詩のファンには特におすすめです。

心洗われることばを求めている方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

 

エッセーが好きですが、エッセーはその読みやすさから軽んじられていると感じるときがままあります。

と感じるのは、私自身エッセーを軽んじているところがあるからかもしれません。

就職活動の面接で、好きな本のジャンルはエッセーだと言った時の、面接官の落胆した顔(被害妄想かも)が私のコンプレックスを加速させました。

世には読むべき本が溢れていて、書店に行くと、いかに立派な人間になるか(多くはいかに多くのお金を稼ぐか)という本ばかりが誇らしげに並べられていて、元気なときは新しい世界の広がりにワクワクもしますが、心弱っているときは押しつぶされそうになります

それでも、決してエッセーは私の逃げ場ではなく、より心豊かに、ときに残忍な人間となりかかっていることを少しでも足止めするためにあります。

世界への厳しい眼差しと人生への深い愛情

本書は、何気ない日常の一コマのなかに、美しい四季を見出します。

穏やかで、美しい言葉のなかに、ときにスッと切り込むきびしさが著者ならではの感性を思わせます。

黒ずんで、皺だらけで、身をよじるようだった年老いた樹々が、これほどつややかな実をみのらせることができるなら、世界はまだ信じるにあたいするのだと。(「さくらんぼ」)

世界は信じるにあたいするか、きっと何年も何十年も考え続けたであろう著者の人生と世界に対する厳しい眼差しが感じられます。

また、著者は、人生の哀しみに深い愛情を示しもします。

日本の西瓜は、バスケットボールの球のように真ん丸で、しっかりしていて、それでいてどこか陽気だ。けれど、水瓜であるウォーターメロンというのは、大きな枕のように横長で、人生の悲しみみたいにでかい。(「スイカ」)

人生の悲しみみたいにでかい、という北米フロリダの山間部で見たうずたかく積まれたウォーターメロン。

どこか、可笑しみさえ感じる表現です。

ちなみに、地元ではこのウォーターメロンで自家製のウォーターメロン・ワインをつくるらしいのですが、ウォーターメロン・ワインとは?、と思ってしまいましたが、検索するとレシピ動画が結構あって、わりとポピュラーな飲み物みたいです。

イカ果汁をイースト菌で発酵させた飲み物…?のようです。多分。

ミカン箱と愛しいものの大きさの相関

また、夢で見たミカン箱のなかの猫を思い出しての言葉も猫好きとしては納得。

人が愛しいものを両手で抱きとれる大きさが、ミカン箱の大きさなのである。(「ミカン」)

今回ご紹介した本はこちら

その他のおすすめのエッセー作品

こちらは現代に生きる俳人のエッセーです。

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『死にふさわしい罪』藤本ひとみ | 【感想・ネタバレなし】天才的な数学系男子が挑む謎としたたかな大人たち

今日読んだのは、藤本ひとみ死にふさわしい罪』です。

歴史小説の大家というイメージがあったのですが、数学が得意な高校生が主人公のミステリということで、ちょっと気になって読んでみました。

ところどころ見え隠れするペダンティックな趣味と、決して善人ではないのに、憎めない登場人物が忘れられない一冊でした。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

数学が得意な受験生・上杉和典は一族のクリスマスパーティーの準備のため叔父の別荘のある須磨にやってきた。別荘の隣家には元人気気象予報士芽衣が住んでおり、彼女の疾走した夫が和典の愛読していた数学ブログの筆者だと知る。しかし芽衣の夫は引っ越しの晩に姿を消したという。和典は芽衣が同居する老少女漫画家の伯母が事件に関与しているのではないかと調査をはじめる。

おすすめポイント 

・読むだけで知識が得られる衒学趣味な物語が好きな方のおすすめです。

・人物描写の濃いミステリを読みたい方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

ミステリとして読まない

本書は一応、疾走したヒロインの夫の秘密を追うというミステリの形をとっているのですが、本格ミステリとして気張って読むと、楽しい所をむしろ見逃してしまうと思います。

なぜなら、思わせぶりに登場しておきながら、特に真相には関与しない人物描写や、伏線のように見えて実は伏線ではない事柄が結構あるからです。

本格ミステリばかり読んでいると、全ての描写が罠に思えるばかりが、全ての事象が最後の真相に収束していくと思い込んでしまう病気になるな、と反省しました。

本書の見どころはむしろ、どんな困難で抑圧された状況にも強かにあろうとする人間のしたたかさと、それぞれ長けた能力を持つ人物が主人公に知恵を貸してくれることのたのもしさ、楽しさでしょう。

能力豊かな友人たち

主人公の和典は、天才的な数学の才能があるのですが、対人関係が少々苦手で最近彼女にフラれたばかり。

目の前の課題に、あくまで数学的なアプローチで迫ろうとする態度は、はたからみると滑稽なところがあって面白いです。

和典を取り巻く友人も個性豊かで、自然科学オタクで羊のようにのんびりした小塚くん歴史愛好家でフランス語も読めちゃう美門くん

さすが進学校ですね、と言いたくなります。

これら、知識豊かな友人たちが、折に触れ和典くんをサポートしてくれるのです。

頼もしい!、と同時に、これほどの知識を自分は高校生のときに(いや、今でも)持っていただろうか、と己が身を恥じ入る気持ちです。

強かな大人たち

高校生たちも瑞々しくて良いのですが、大人組も負けてはいません。

特に印象に残る登場人物は、和典の叔父と、物語のキーパーソンとなる老少女漫画家・理咲子でしょう。

まず、冒頭で描写されるエリート一家のなかで、落ちこぼれ扱いされているお人好しの叔父さんの姿には、胸が痛くなるものがあります。

それでも、和典は叔父さんの人柄を素数のようだと思います。

「叔父さんには、座右の銘ってありますか」

それを聞けば、これまでどうやって生きてきたのかがわかるだろう。

「大切にしている言葉でもいいです。教えてください」

叔父は口を閉ざす。考え込んでいる様子だった。どんな答が返ってくるか想像もつかない。それを待っていると、やがてはにかむような笑みと共に唇を動かした。

「置かれた場所で咲く、かな」

その静かな佇まいを、どこかで見た気がした。思い出そうと頭をめぐらせていて、気が付く。素数に似ているのだ。全ての数の原点である1と、自分自身でしか割り切れない整数。仲間を作らず唯一人で立ち、凛として存在する孤独な数。

また、往年の少女漫画家の理咲子は、当初はわがままで非常識で、未だ王子様願望を持つ少女趣味な老女として登場しますが、徐々に奥深い人間性が露わになります。

さすが、創作に一生を捧げたことのある人間だけあって、人生経験豊富で会話もウィットに富み、得意の数学の話を求められ喜々として語った和典ですが、見事にバッサリ切られてしまいます。

「あなたの話って、なんか面白くないわ。退屈」

興が乗っていただけに、ムッとし、黙り込む。

「たぶん自分の世界を語るだけで満足しているせいよ。独り言を言ってるみたいに、自分から流れ出したものを自分で吸い込んでいる。自分の中だけで完結してしまってるから、広がりがなくて、他人が入っていけないの。っていうか、入って行こうって他人の気持ちを削ぐのよね。勝手に言ってろって感じになるわ」

めっちゃずけずけ言われてるやん、って感じですが、まあ、その通りで、そんなんだから彼女にフラれるんだよー、と読者的にはニマニマしてしまいます。

でも、こういう男の子って若い時はいたな~、と懐かしく思いだしました。

和典の叔父と理咲子は、一見すると、人生の落後者と成功者と正反対ですが、人生に対するしたたかさというか、襲いかかる困難を自分の力で消化する強さは、よく似ています。

この年になると、高校生より大人の登場人物に感情移入するよね、という話でした。

今回ご紹介した本はこちら

藤本ひとみの他のおすすめ作品

同主人公の話が他にもあるみたいなので、こちらも読んでみたいです!

 

 

 

『エチュード春一番 第三曲 幻想組曲』荻原規子 | 【感想・ネタバレなし】平将門の物語を蝦夷の少女の視線で再構築する。シリーズ第3巻。

今日読んだのは、荻原規子エチュード春一番 第三曲 幻想組曲 [狼]』です。

八百万の神の一柱を名乗る白黒のパピヨン”モノクロ”と同居する女子大生・美綾の生活を描いたファンタジーシリーズの第3巻です。

1巻2巻の感想はこちら↓

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美綾の学生生活が主だったこれまでと打って変わって、今作ではいきなり平安末期にタイムスリップします。

平将門という実在の人物の物語や歴史をファンタジーに再構築する手法は、これまで勾玉シリーズなどで見せてきた荻原規子の真骨頂といったところでしょう。

個人的には、この間、古川日出男訳の『平家物語』を読んだ後だったので、余計楽しかったです。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

八百万の神を名乗るパピヨン・モノクロと暮らす美綾は、大学のサークル・日本民俗学研究会の活動で『将門記』を読んだばかり。すると、なんとモノクロは将門本人を知っている気がするという。モノクロの提案で10世紀に意識体だけタイムスリップした美綾だったが、将門の従者で蝦夷の少女・ユカラの体に閉じ込められてしまう。ユカラの目で将門を起きた出来事を眺めるなかで、彼女の切ない想いに感情移入していく。しかし、邪悪な呪い”えやみ”が彼らに迫っていたのだった。

おすすめポイント 

・歴史を独自解釈した系の物語が好きな方におすすめです。

・等身大かつ好感の持てる女性主人公の物語が読みたい方におすすめです。

・仄かな恋愛要素がある小説をお求めの方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

平将門の時代へタイムスリップ

本書は軍記物語である『将門記』を読んだ美綾が、モノクロの力でタイムスリップして実際の将門を見に行く話なので、将門記』を先に読んでおくと更に楽しめるんだろうな、と思いながら読みました。

歴史上の武将なので仕方がないのですが、似た名前の登場人物が多い&血縁姻戚関係が複雑で、恥ずかしながら、頭の中で登場人物表と家系図を思い浮かべることがなかなか大変でした。

ですが、そういった些末なもの吹き飛ばすくらい物語自体が面白くて、そこはさすが荻原規子でした。

蝦夷の巫女・ユカラ

平安末期の軍記ものという堅い話を、柔らかな印象のファンタジーへとメタモルフォーゼさせているのは、やはり主人公の美綾と彼女が宿ってしまう蝦夷の少女・ユカラの存在だと思います。

将門の従者をユカラは、大和の人間からは下に見られているのですが、実は蝦夷の一族のなかでは、巫女のような存在と大の男からも敬われていて、馬の扱いが巧みで、弓に長けていて、”山の民”と呼ばれる狼たちとも意思疎通できる大分すごい少女です。

でも本人は将門を狙う”えやみ”から彼を守るという自分の使命に一生懸命で健気です。

ユカラと体を共にすることになる美綾も、そんな彼女の想いに同調し、歴史は変えられなくても、彼女の願いは手助けしてあげたいと思うようになります。

美綾自身も当時の建物や人々の暮らしぶりに興味津々で、好奇心旺盛で知性的な面をのぞかせます。

この二人の少女がとても好感のもてる人柄なのが、物語をストレスなく読める一因かな、と思います。

美綾と黒田くんの関係

1巻2巻と続いてきたモノクロとモノクロの人間体・黒田くんとの関係も大分進んできたな、という感じです。

また、1巻2巻では、普通の女子大生・美綾と対比させることで、モノクロ(黒田くん)の人間と異なる思考が強調されていたように思うのですが、3巻では、むしろ美綾の人間性がクローズアップされたと感じます。

美綾は将門やユカラやそれを取り巻く人々について、よくよく観察し考察するのですが、黒田くんは神なのでそういったことが苦手で、美綾のそういった態度に感心する場面が随所にあります。

「みゃあは、そういうのが好きだね」

「そういうのって、何」

「人間と人間の関わり具合かな。いつも考えてる」

美綾は眉をひそめた。

「好きだからじゃなくて必要だからだよ。人の社会で生きていくには」

「でも、きみ、この社会に生きていないよ」

美綾が、人のことをよく見ていて、思慮深く、また人に想いを寄せることのできる優しい女の子であることが良くわかります。

黒田くんはどこまでいっても神なので、根本的に美綾の価値観とは相いれないし、しかも、本体は「わし」「おぬし」とかしゃべる犬だし、2人(1人と1柱?)の関係はこれからどうなるの?、とやきもきしてしまいます。

早く4巻が読みたいです。

今回ご紹介した本はこちら

荻原規子の他のおすすめ作品

 

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芥川賞を全作読んでみよう第7回『厚物咲』中山義秀 |【感想】骨の髄まで腐った老人が咲かせた美しい菊に透かし見る人生の艱難に抵抗した魂の秘密

芥川賞を全作読んでみよう第7回、中山義秀厚物咲』をご紹介します。

芥川龍之介賞について

芥川龍之介賞とは、昭和10年(1935年)、文藝春秋の創業者・菊池寛によって制定された純文学における新人賞です。

受賞は年2回、上半期は、前年12月から5月までに発表されたものが対象、下半期は、6月から11月までに発表されたもの、が対象となります。

第七回芥川賞委員

菊池寛久米正雄山本有三谷崎潤一郎佐藤春夫宇野浩二室生犀星小島政二郎、佐々木茂索、横光利一川端康成瀧井孝作

第七回受賞作・候補作(昭和13年・1938年上半期)

受賞作

厚物咲中山義秀

候補作

『鳥羽家の子供』田畑修一郎

『龍源寺』澁川驍

『鴉』『鶯』伊藤永之介

『南方郵信』中村地平

『田植酒』丸山義二

『隣家の人々』一瀬直行

『般若』秋山正香

受賞作『厚物咲』のあらすじ

代書業を営む70代の老人・瀬谷には、長年の知古であり、骨の髄まで吝嗇で守銭奴の片野がいた。周囲に嫌悪される心の汚い片野は、何故か菊づくりの名人でもあった。そして、周囲に嫌悪され、瀬谷の知人の未亡人にあさましくも懸想したあげく、見事な新種の菊を抱えたまた縊死しまう。瀬谷は片野の不思議な片意地とその荒涼とした生きざまに自らの人生をかえり見るのだった。

感想

選評委員の評価

選評によると、久米正雄がこの話を特に推していました。

読んだとき、深い感動に打たれて、暫く芥川賞銓衡なぞの俗事を忘れ得たのは、正直なところ、此の作品だけだった。(久米正雄

横光利一なども、言葉短かながら称賛していています。

殊に賞賛したく思うところは、洋法を用いながら見事に日本色を出した筆法で、このような新しさは今までの文壇に稀に見るところと思う。(横光利一

ところが、小島政二郎、佐々木茂索はあまりこの作品を、というか今回の候補作全体を評価しておらず、

僕だけの感想を云うと、今度が一番優れた作品に乏しいようだった。佐々木と僕とはその一点同意見だった。そのことを、最後の委員会の席上で口にしたら、久米正雄の激しい反対にあった。(小島政二郎

他の選評委員の話もまとめると、どうやら、伊藤永之介『鴉』という候補作のほうが、芸術的で上品だと評価を受けていたようなのですが、伊藤永之介はこの時点ですでに有名だったから、新人の賞という芥川賞の性格にそぐわないと却下され、じゃあ、久米正雄が強く推していて、菊池寛も頷いた『厚物咲』に、という話になったようです。

この伊藤永之介という作家、寡聞にして知らなったのですが、1920年代後半から活躍していたプロレタリア作家だったようで、やっぱり当時のトレンドと後世の有名度は違うな、と感じました。

あと、全然関係ないのですが、前回の第6回から委員に加わった宇野浩二の選評が他の委員に比べて長いと書いたのですが、今回の選評もめちゃくちゃ長かったです。どのくらい長いかというと、横光利一が8行くらいしか書いてないのに、一人で8頁くらい使ってました。

候補作一つ一つに評価をきちんと書いていて、もしかしてすごく真面目な人なのかな?と思いました。

芥川賞には珍しい読後感

私は、この話は結構好きで、性格悪い老人の人生の話なのに、読後感は悪くなく、芥川賞には珍しく前向きになれる類の話でした。

要約すると、クソのような性格の老人のクソのような人生の汚泥から世にも美しい菊が生まれるのだけど、それって人間の生き方としてどうなの?、もっと人間らしく生きようね、という話でした。

生き恥を晒し続けた老人の末路

この片野という老人が如何にイヤでケチな人間かという描写がえんえんと綴られていて、そこが結構面白かったです。

語り手の瀬谷に貸した30円を延々と取り立て続け(もう完済してるのに)、お金がもらえないと延々と愚痴をこぼす、から始まり、病床の老妻の医者代も食事代もケチる、というところで嫌悪感は頂点に達します。

瀬谷の妻が見兼ねて看病に行くのですが、病人はもう食べ物の匂いを嗅ぐだけで気持ち悪い、と訴えており、台所を除くと、「幾度も幾度も水を加えて煮なおしたらしい粥や蓋をあけたばかりでプンと臭いのくる味噌汁鍋が隅に抛りだしてあった」といいます。

これもすべて、「片野は無駄と手数を省くために病人の喰べ残しを幾日でも宛がいつづけていた」ためです。

しかも、老妻が最後にひきつけを起こしたときには、「あっ、とうとう死んだ。死んだ」と喜び、まだ息があるのに医者を呼ぶのももったいながったというのですから、最悪です。

しかも、片野老人は70代でこんな性格(しかも貧乏)のくせに、女好きで、老妻が死んだ後は、下品な商売女と再婚し、しかも逃げられ(「こんなシツコイ爺ィったらありゃしないよ。一日だって私をらくにしちゃ置かないんだからねえ」)、末は、瀬谷の知人の未亡人に婿入りしようと画策するのですが、この未亡人は身持ちが確りしていて立派な人物だったので、派手にフラれてしまいます。

生き恥ってこういうことを言うんだろうな、という感じなのですが、この未亡人にフラれた後、片野は自らが生み出した新種の見事な菊を抱いたまま縊死してしまうのです。

人生の非情から咲いた厚物の菊の凄まじさ

こんな性格の老害自死したりするの?、と読者も瀬谷も不思議に思うのですが、そこに荒涼とした魂の秘密があるというのです。

瀬谷は、片野の偏執的なまでの片意地が、彼の辛苦に満ちた70年の生涯を支え、そのすえに死に追いやったのではないかと推察します。

人はこうした何等かの魂の秘密なくしては、その艱難な正確に耐えないのであろうか。それとも艱難の生活がそういう秘密を生むのであろうか。

生き恥を晒した老人のその性分には、そうならないと耐えられないような人生の苦しさがあり、老人はその人生の苦難にひたすら無為な意地を張り続けることで抵抗し続けたのでした。

語り手の瀬谷はその凄まじい生き方にぞっとし、それまで落ちぶれたと感じていた自分の人生のことを省み、自分はもっと人間らしく生きようと思いなおすのでした。

非情の片意地を培養土にして厚物の菊を咲かせるより、花は野菊の自然にまかして孫達のお守りをしながらもっと人間らしい温かな生涯を送ったほうがましだと、瀬谷は二度ともはや果樹園の方を振り返ろうともせず、しかし流石に永年の友を失った孤独に沁みて反対側の山路を一人とぼとぼと下って行った。

今回ご紹介した本はこちら

『時空犯』潮谷験 |【感想・ネタバレなし】成功報酬1千万円。千回近くループし続ける”2018年6月1日”の謎を解け

今日読んだのは、潮谷験『時空犯』です。

デビュー作でメフィスト賞受賞作のスイッチ 悪意の実験がとてもユニークで面白かったので、2作目も読んでみました。

ある1日がループするなかで、殺人が起きる、というSFミステリです。

この設定のミステリではお馴染みの、SF的ルールの中で、如何にフーダニットを実現させるか、という点が胆となります。

途方もない話から、するする犯人が絞られていく過程は、ミステリ好きにはたまらない快感でした。

あと、前作の時も思ったのですが、装幀がすごく綺麗ですよね。

これだけでも買う価値あると思います。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

成功報酬一千万円。応諾を問わず、準備金四十万円支給。
破格の依頼は、千回近くループしている”2018年6月1日”の仕組みを解き明かすという驚きの内容だった。
私立探偵・姫崎智弘は集められたメンバーと共にループを認識できる薬剤を口にする。
ところが、再び訪れた”2018年6月1日”で実験の提唱者:北上伊織博士が殺害されてしまう。
そして、次の”2018年6月1日”でも犠牲者が…。犯人の狙いと目的とは。

おすすめポイント 

ちょっと変わった設定のミステリを読みたい方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

ループし続ける1日と正統派のフーダニット

SFをミステリに取り入れるときに、困ることが、作中で起こるSF現象のルールが複雑で覚えられないうちに終わる、というものです。

この場合、トリックが公開されても、へ~、そうだったんだ~??という消化不良になって、謎解きの快感が味わえず終わってしまうのですが、本書『時空犯』は、見事に正統派のフーダニットになっているな、と思いました。

私立探偵・姫崎智弘が巻き込まれた実験は、ループし続けている”2018年6月1日”に飛び込む、というものです。

実験の主催者の北上伊織博士は、もうすでに千回近いループを体験しているというのです。

博士のつくった薬剤を飲むことで、実験の参加者もループのなかでも記憶を保つことができるようになるのですが、反対に戻ってこれる保証もありません。

ともすれば、永遠に”2018年6月1日”のなかに閉じ込められてしまうかもしれないのです。

成功報酬一千万の意味はここにあります。

この時点でぐっと引き込まれてしまうのですが、なんと、再度ループした”2018年6月1日”で、当の北上伊織博士が殺害されてしまうのです。

しかし、ループというSFのなかで展開されるのは、飛び道具的なトリックではなく、人間の行動の積み重ねを推理し犯人に行き着く、伝統的な”犯人当て”です。

ある1日が千回近くもループするという超常現象のなかで、純粋な論理のみで犯人が絞り込まれていく推理の過程は、これぞまさに本格ミステリの醍醐味!と嬉しくなりました。

これまでに無いミステリ

本書の面白いところは、まだまだあって、1日がループするということは、殺害の犠牲者が次のループの際には復活してしまう、ということです。

え、それじゃあなんで犯人は博士を殺害したの??

どうせ生き返ってしまう人間をわざわざ殺害する意味。

というかこれは殺人事件と呼んでいいの?

このあたりの設定と犯人の動機が、これまでの推理小説には無い斬新なアイディアで、すごく興味深かったです。

また、ループというファンタスティックなワードに惑わされてしまいますが、よく読むと緻密に伏線が張り巡らされていて、唸らされます。

主人公のちょっとした動作にも読者に対する罠が仕込まれていて、ちょっと悔しかったです。

私は諦めない

また、実験に集められたメンバーは、私立探偵、刑事、売れっ子タレント、元大物政治家、みやげ物屋のおばちゃん(兼ラブホテル経営者)、高校生ハッカー、などなど多彩も多彩。

特に、みやげ物屋のおばちゃん(兼ラブホテル経営者兼観光協会会長)のキャラクターは光ってました。

こういう飴ちゃんを鞄に常備してそうな典型的なおばちゃんが、意外に切れ物だったりすると物語が締まりますよね。

キャラクター目当てで読むタイプの小説ではないかな、とおもいますが、登場人物のちょっとした小ネタと主人公の脳内ツッコみが、いかにも関西的でよかったです。

余談ですが、前作の『スイッチ 悪意の実験』の小雪と安楽のコンビがすごく好きだったので、今作でも出ないかと期待していたのですが、そんなことはなかったです。

でも諦めきれないので、これからも期待し続けたいと思います。

今回ご紹介した本はこちら

潮谷験の他のおすすめ作品

『原因において自由な物語』五十嵐律人 |【感想・ネタバレなし】彼は誰が殺したのか、自由意志がもたらすある悲劇と夜明け

今日読んだのは、五十嵐律人『原因において自由な物語』です。

タイトルのカッコよさに惹かれて読みました。

法律用語の「原因において自由な行為」からきているらしいです。

弁護士でもある著者らしいタイトルだな、と思いました。

内容は、いじめ、自殺疑惑、ゴーストライター、とちょっと重いです。

また、著者の、弁護士であることと小説家であること双方のレゾンデートルが、物語の形に落とし込まれている点が興味深かったです。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

人気小説家の二階堂紡季は才能の枯渇に悩まされていた。
しかしある日、弁護士である恋人の転落事件により、とある男子高校生の自殺疑惑に巻き込まれていく。
彼はなぜ死んだのか。
そして恋人は何を語ろうとしていたのか。
物語ることの意味を今一度問いかける。

おすすめポイント 

・自分にしか書けない新しいスタイルの小説を書こうという気概を感じます。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

顔面偏差値といじめ

作中では、ルックスコアという顔面偏差値を測るアプリが若年層の間で普及しており、その数値によってスクールカーストが形成されています。

その残酷なカーストの最下位に属していたとされる一人の男子高生の死が物語のキーポイントとなります。

壮絶ないじめを受けていた男子高生が、生前何を考え、何をしようとしていたのか。

彼の周囲にいた二人の女子高生は、彼の死に、何を考え、どう行動したのか。

「いじめって、人数制限があるウイルスみたいなものなんだ」

「はい?」

「宿主が苦しんでる間は他者に感染しない。でも、宿主の免疫力が強くなったり、外部からワクチンが投与されると、次の感染先を狙い始める。表面的には解決したように見えても、ウイルスの保有者が変わっただけだった。そういうパターンを山ほど見てきた」

文章が上手いんだけど2冊目は読まないかな、という作家と、拙いところはあるけどこれからもチェックしようかな、という作家がいるのですが、この著者は後者だな、と思いました。

作中作という仕掛けを用いて、現実と虚構の間の頼りなさを表現し足元が崩れるような不安感を醸し出す冒頭部分など、お!上手い!と身を乗り出してしまいました。

何より、”書いてやる!”という強い意志を作品全体から感じたのが好印象でした。

自由であることとは

「原因において自由な行為」とは、交通事故や殺人などの罪が行われた際、例えその瞬間に心神喪失状態にあっても、その原因となった行為(飲酒や薬など)の際に完全に責任能力があった場合、刑事責任を問えるという理論らしいです。

”いじめ”という過酷な現実に対し、少年少女らは瞬間的に暴走し、ときに道はもう他に無いと思い込んでしまいます。

また、彼らの真実を追う主人公も、作家としての自分がすでに才能が枯渇したと感じ、自らの罪に向き合えずにいます。

彼らに共通しているのは、自分にはどうすることもできなかったと思い込み、起こってしまったことの結果だけに拘り自罰的な行為にのめり込んでいることです。

あらゆる物事の結果は、一人の人間の一回の決断だけでなく、たくさんの人のその時々の小さな意思決定によって導かれます。

いじめを主導する加害者、見て見ぬふりをするクラスメイト、手をこまねく教師、手の差し伸べ方を間違えた友人、彼らの幾つもの選択の積み重ねが破滅をもたらします。

本書が訴えかけるのは、無数の無責任な”自由意志”が時に大きな破滅をもたらすことへの警鐘と、それでも、自由な意志を持つことこそ人間の素晴らしさである、という切ないまでの想いです。

作中で語られる通り、この物語は、誰かを救済する物語ではなく、痛みを痛みのまま伝えるための物語です。

自由であることは痛く辛く、でもその痛みを救済するのもまた自由な意志なのもしれません。

次回作も楽しみです。

今回ご紹介した本はこちら

『ブラッド・ブラザー』ジャック・カーリイ | 【感想・ネタバレなし】カーソン・ライダーシリーズ第4作。あふれる魅力と高い知能を持つ殺人鬼、それが僕の兄

今日読んだのは、ジャック・カーリイ『ブラッド・ブラザー』です。

シリアルキラーを兄に持つ若き刑事・カーソン・ライダーの活躍を描いたシリーズ4作目です。

前作『毒蛇の園』ではなりを潜めていた兄・ジェレミーが大活躍します。

また、本拠地モビール市を離れ、大都会ニューヨークに舞台がうつります。

緻密な伏線と南部の美しい風景描写が特徴だった1~3作目と対照的に、ダイナミックな展開と登場人物の内面に迫るストーリーで、海外ドラマのシーズン最終回っぽいドラマティックな作品でした。

これ1作というより、シリーズのファンに嬉しい一冊だと思います。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

連続殺人犯の兄・ジェレミーが施設から脱走した。
異常犯罪専門の刑事・”僕”ことカーソン・ライダーはニューヨークに潜伏したジェレミーを追うことになる。
きわめて狡猾、知的、魅力的な殺人犯・ジェレミー、そして”僕”の兄、彼の真の目的とは。

おすすめポイント 

・海外刑事ドラマが好きな方におすすめです。

・”兄弟、家族の確執”みたいな話にピンとくる方におすすめです。

・知的で魅力的な殺人犯が活躍するお話が読みたい方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

またしてもガールフレンドがチェンジ!

第1作『百番目の男』、アル中の病理学者・アヴァ。

第2作『デス・コレクターズ』、新進気鋭の女性レポーターのディーディー。

第3作『毒蛇の園』のラストでは10歳年上の病理学者・クレアとちょっといい雰囲気に……。

そして今作では、ニューヨーク市警の警部・アリスと良い感じになります。

もうこれは、一作品一人彼女ができると思っていいかもしれません。

え? これがアメリカのスタンダードなのかしら?

殺人鬼で僕の兄・ジェレミー

本シリーズの魅力は何といっても主人公の兄にして、高度な知能を持つ殺人鬼・ジェレミーです。

アラバマ逸脱行動強制施設に収容され生きている限りシャバには出てこれないはずの彼が、今作では何と脱走し、ニューヨークに潜伏してしまいます。

さらに、施設所長のヴァンジーがむごたらしい死体となって発見され、ヴァンジーが生前遺したメッセージによって、”僕”はニューヨークに呼ばれます。

「このビデオが発見されたら、モビール市警のカーソン・ライダーに連絡をお願いします」

ヴァンジーはジェレミーによって殺害されたと考えた”僕”は、ニューヨーク市警の面々と捜査を開始するのですが、ジェレミーはその高度な知能で巧みに捜査の手を逃れます。

ジェレミーの行動を追う”僕”の描写が、いとわしく思ってても長く一緒にいるからどうしても思考が読めてしまう、という兄弟っぽさがあってよかったです。

ジェンダー女性嫌悪ミソジニー

カーソン・ライダーシリーズは、一作一作に明らかなテーマとメッセージ性があるのが特徴的ですが(『百番目の男』は過去との対決、『デス・コレクターズ』は人間の底知れない欲望)本書の隠れたテーマはジェンダー女性嫌悪ミソジニーだと思います。

個人的な経験を、ジェンダーの問題にすり替えて自己欺瞞に走る人間の愚かさと醜さが紙いっぱいに表現されます。

大統領候補に脅迫文を送ったある男は、自分の「男らしさ」を「ずる賢いフェミニストたち」が脅かしている、と主張します。

男は、女性によって権利を侵害され、攻撃されている、というのです。

そういえば職場に、「そんなにセクハラ、セクハラ言われたら男は何もしゃべれません」と発言した人がいたのですが、研修の先生に「じゃあ、しゃべらなければいいんです」と瞬殺されてて笑いました。

こういった人々のルーツは、「たいていは本人の失敗を他人のせいにしているだけ」と本書は断じます。

おれを殴ってくれよと、こうした連中は言っているようだ。ひとたび殴られれば、その件をねちねちと言いつづけ、自分のあざを周囲が哀れんでくれることを望んで一生を過ごす。

自分に自信が無いばかりに、常に攻撃する存在を求め、それがために、自身が傷つけられることを望む、というねじれ切った自己欺瞞の塊です。

そして、こうした女性嫌悪ミソジニーと転じたマチョイズムは、女性性を攻撃するようで実は男性性自身を攻撃しているのです。

本書の真相は、この「男らしさ」というマッチョな概念と女性嫌悪ミソジニーのグロテスクな構図を見事に浮き彫りにします。

「男らしさ」なんて幻想からすべての人が逃れられることを祈ります。

今回ご紹介した本はこちら

既刊・続刊はこちら

第1作目『百番目の男

第2作目『『デス・コレクターズ』』

第3作目『毒蛇の園

第5作目『イン・ザ・ブラッド

第6作目『髑髏の檻

第7作目『キリング・ゲーム