『アールダーの方舟』周木律 | 【感想・ネタバレなし】三つの宗教が交錯する聖なる山で起きた不可解な殺人事件と壮大なる歴史ミステリー。人間存在の尊厳が問われる物語。
今日読んだのは、周木律『アールダーの方舟』です。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、3つの宗教共通の聖なる山・アララト山、ノアの方舟が漂着した土地として知られる山を舞台とした歴史ミステリー、という触れ込みに惹かれ手に取りました。
宗教と神にまつわる溢れる知識量と、それが徒な衒学趣味に陥らないトリックの妙、巧妙に仕込まれた伏線、に、これは実は凄いミステリーなのでは?、と驚いてしまいました。
人間存在に尊厳を取り戻すよう呼びかける厳しい叱咤ともとれる著者のメッセージ性も明らかで、見事の一言でした。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
「神は妄想」と断じる完全記憶能力を持つ放浪の数学者・一石豊が見た、神、宗教、建築学が複雑に入り組んだ歴史の謎と真犯人とは。
おすすめポイント
・キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の狭義についてかなり詳しく解説してくれています。
・歴史上の謎を解き明かす系の歴史ミステリーが好きな方におすすめです。
巧妙な伏線
ミステリーの感想を書くのは、肝心なところが書けない分もどかしくて難しいのですが(何を書いてもネタバレになりそう……)、本書はとにかく伏線のはり方がうまい!、と感じました。
ミステリーを読み慣れてくると、大体、「あ、これ伏線かな?(何の伏線かは分からないけど)」となってくるのですが、本書は、その箇所が伏線ということさえも種明かしまで全く気付きませんでした……。
なので、ショウダウンされた後、「え?そうだったの?」とめちゃくちゃ前のページを読み返しました。
作中で、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教とその歴史と教義についてかなり詳細に解説されるのですが、はいはい、ミステリーにありがちの豆知識ね、と油断していると痛い目を見ます。
見ました。
というか、今思うと、章立てから、登場人物の会話、主人公の設定、何から何まで、著者の張り巡らせた罠だったように思います。
おのれ……。
入り組んだ宗教構図
本書で、重要なトリガーとなるのが、各登場人物の信仰する宗教です。
話し手となる日本人フォトグラファー・アリスは、初詣は神社、葬式は寺、結婚式は教会の、どの神様も節操なしの日本人の典型的宗教観の持ち主です。
調査隊の隊長・ミラー博士はカトリックで、調査隊自体がカトリックの財団から支援を受けていますが、実は博士は内心は信仰を捨てている、というちょっと複雑な事情があります。
登山経験豊富なウェスレー博士はプロテスタント、そのなかでも規律を重んじるメソジスト、現地のアシスタントのアリはムスリム、遺物の年代鑑定のため同行した天才学者・一石は、無神論者。
この入り組んだ構図と雪山という閉鎖空間が、登場人物の間に疑惑と緊張感をもたらします。
一人また一人と殺されていく調査隊のメンバーら、彼らは宗教間の遺恨により殺されたのか?、それとも彼らは至上の存在の怒りに触れてしまったのか……?
自分の足で立つ
このミステリーに、探偵役として配されるのは、完全なる記憶力と驚異的な計算能力を持つ男・一石豊です。
彼は、完全なる無神論者で、神は妄想で有害と断じます。
「大胆。ええ、そう言われればそうかもしれません。しかし、事実、僕は神などいないし、その存在も有害でしかない、そう言い切るべき信念を持っているのです」
彼の人生の目的は、「人間とは何なのか」を探求することにある、といいます。
彼の言葉は、人間の怠慢や欺瞞を厳しく非難します(しかも話がめちゃくちゃ長い)。
彼によると、神にその行動の理由を委ね、本来の目的を見失っている人間は、もはや人間とは呼べないのだそうです。
この厳しく膨大な言葉の聞き手として配されるのが、語り手となるフォトグラファー・アリスです。
彼女は、物語上複数の役割を担う極めて重要なキャラクターといえます。
物語の事実上の語り手であり、一般的な日本人の宗教観を代弁する役割であり、一石の天才性を引き立てる脇役であり、話の聞き手、つまりワトソン役であり、かつ推理する探偵でもあります。
そのうえ、彼女は、一般的な人物を代表しながら、その実、一石の尊重するタイプの”自分の足で立つ人間”でもあります。
「まあね。それでも彼女は自分の足で立っているが」
反対に、崇高な目的のためなら人を殺しても構わない、と考えた時点で、殺人犯は、自らの足で立つことをやめ、むしろ崇高なもの(=神、あるいは尊厳)を失った、ということになります。
一石はこの欺瞞を鋭く批判します。
自分の足で立つこと、神という外部に存在理由を求めない一個人であること、それは厳しく痛みを伴うことですが、それこそが”人間の尊厳”なのだ、という強いメッセージ性を感じました。
もし、同じ主人公の話が出たら、読んでみたいです。