『沼地のある森を抜けて』梨木香歩 | 【感想・ネタバレなし】新しい命よ、解き放たれてあれ。壮大な命の旅路と震えるほどの孤独と自由、託された夢と可能性に心震える物語
今日読んだのは、梨木香歩『沼地のある森を抜けて』です。
叔母から受け継いだ先祖伝来の「ぬか床」という庶民的(?)なスタートから、途中不一気に不穏な雰囲気になり、最終的に、命のはるかな旅路と新しい生命に託された可能性と夢が描かれるという、壮大で愛おしさに満ちた物語です。
近所のいつも通らない小道をふと通って見たら、いつのまにか遠い場所にさらわれ、翻弄されているうちに深い森に迷い込んだような、なかなかない読書体験でした。
命を産む、とは一体何なのか、長い間悩んでいたのですが、何かしらの救済が与えられたような、そんな気がします。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
ところが、「ぬか床」からは呻き声や不可思議な卵が発生し、遂には「人」まで湧いて出てきて……。「ぬか床」から起きる不思議な現象に導かれるように、久美は先祖の島へむ向かう。はるかな命の旅路、その最先端に立つ圧倒的な孤独と愛おしいまでの可能性を描く壮大な命の繋がりの物語。
おすすめポイント
・命とは何なのか、性とは何か、に真摯に向き合った文学作品です。
先祖伝来の「ぬか床」
主人公・久美は、母の一番下の妹である時子叔母が死んで、先祖伝来の「ぬか床」を受け継がなくてはいけなくなります。もう一人の妹の加世子叔母は、「ぬか床」は「呻く」のだといいます。
半信半疑で「ぬか床」の手入れをはじめる久美ですが、何故か「ぬか床」から入れた覚えのない卵が発生、なんとそこから”人”が湧いて出てきます。
日常の風景に異物が自然に混入するファンタジックな導入は、本谷有希子の『異類婚姻譚』のような雰囲気を想起させます(『異類婚姻譚』のほうが後ですが!)。
幼馴染とぬか床から発生した”人”と間の奇妙な繋がりから、異性との関係性へのトラウマ、善意が報われないことへの透明な哀しみ、その救済を描いた1章「フリオのために」はこれだけで短編として成立する完成度の高い章です。
自己複製の呪い
「ぬか床」は、時に、綿々と受け継けつがれてきた女性であることへの抑圧や、伝統やしきたりの名を借りて個人を支配しようとするもののメタファーとして扱われます。
故郷の沼に「ぬか床」を返そうとする久美と、それに猛烈に反対する加世子叔母との会話は、いかにも象徴的です。
ーただ、世話し続けてくれればいいだけなのよ……。
ーいやなんです。もう。
私は、吹っ切るようにいった。
ーそんな、無責任だと思わないの。今までずっと……。
ー何十人何百人何千人たとえ何万人でも、その数の人が過去にあのぬか床に支配されてきたからといって、それがどうして私自身を支配する理由になるんです? いやなものはいやなんです。
「ぬか床」は酵母や最近の絶妙な関係性により保たれたフローラであり、細菌は自己複製(クローン)、つまり”繰り返す”ことによって命を保つ生き物です。
”繰り返す”ことを強制し支配しようとするものに対し、主人公・久美は決然とNo!を表明します。
それは、私たち、人が”性”をもち、”繰り返す”のではなく、交じり合い新しい命を生みだすことを選んだ生命の末裔だからです。
「ぬか床」という日常のパーツから今や、壮大な命の営みへと話が展開していきます。
有性生殖と壮大な命の旅路
一番最初に、有性生殖を行った細胞の勇気を思うよ。それまでひたすら、一つのものが二つに分裂してゆくことの繰り返しだったわけなのに、そのとき、二つのものが一つになろうとしたわけだからね。自殺行為だ。
有性生殖、はこの作品の大きなテーマとなっています。
久美は、「ぬか床」の由来(=家族の来歴)を追い、時子叔母の知古・風野さんと出会います。
風野さんは、病気の母親に「二本の足で立てるぎりぎりまで食事をつくらせた」封建的父権的な祖父と父に反発し、男性や女性といった性そのものを捨てることを決めた男性でした。
男性性を否定する風野さんは、有性生殖による進化・繁栄の考え方にも否定的です。
ー進化? 進化なんかより退化、劣化の可能性の方が遥かに高い。どんどん悪くなる可能性もあるわけよ。優秀な両親の間に、彼らを上回る優秀な子が産まれたなんて話、滅多にあることじゃないわ。だとすればよ、調和的で平和を好む人々がいれば、その人たちの間でクローン再生産をした方が、人類はよっぽど明るい未来への展望が開けているわけじゃない。それが優性思想ってんなら、優性思想で結構よ。もう進化なんかまっぴらよ。繁栄もいらない。これ以上、どこへ行こうってのさ。
古代ひたすら自己複製を繰り返してきた命の中に、突如出現した”性”という自己破壊的な営み。
”性”とは一体何のために存在するのか。
命とは何なのか。
私たちは、一体どこへ行こうとしているのか。
結婚・出産をせず、命を生み出すことをしない生き方を選んでいる主人公・久美と、性を捨てることを選んだ風野さんは、深い部分で共鳴し合います。2人は久美の一族の故郷の島、「ぬか床」がやって来た沼のある森に誘われていきます。
そこで2人は、はるかな命の旅路の最前線に立つことの震えるほどの孤独と、過去の誰でもないものになることを託された夢と無限の可能性を目の当たりにします。
”繰り返す”のではなく、過去の誰にも似ていない命が、過去の誰も通ったことのない道を歩むことを選択した、”私たち”という巨大な生命の意思、その壮大さに圧倒され、物語は幕をおろします。
読後、言いようのない感情に心揺さぶられました。
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