『かきがら』小池昌代 | 【感想】かきがら、がらがら。ざらざらとした言葉と生命の生温かい手触り
がらがら、がらがら、かきがら、がらがら。
近所の書店で、見つけました。
装丁があんまり美しいので思わず買ってしまいました。
ポップによると、本屋大賞一次投票から、そこの書店員さんが選んだ一冊、ということでした。
こういう風に、その書店ならではのおススメがあるのが、実店舗に行くタノシミですね。
では、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
あの音は、都市の、この世の崩壊の予兆音だったのだろうか。
現実のざらざらした荒い手触り、不穏な予感、塩辛い海。
パンデミック後の時の層を詩人の言葉で語る短編7編。
おすすめポイント
詩人でもある著者の独特のリズム感のある文章・美しい表現が読みどころです。
パンデミック後の不穏な日常、ぶつぶつした現実の手触りなどが、描かれています。
装丁がとにかく美しい1冊です。
美しい言葉のリズムと表現
どの短編も、不穏な空気や、生ぬるい海水を思わせる言葉で綴られています。
ストーリー云々より、詩人でもある著者が持つ言葉のセンスや手触りを楽しむ短編でした。
がらがら、がらがら、かきがら、がらがら。牡蠣の殻が落下する音、あれは都市の、この世の崩壊の予兆音だったのだろうか。
この「がらがら、がらがら、かきがら、がらがら」という言葉の連なりは、何度でも口ずさみたくなります。
無骨で孤独で塩辛く粗い、そんな舌触りの言葉です。
また、こちらの表現もお気に入りです。
人をごっそり抜いてしまうと、東京は血を失ったように青い貧血になった
詩人てすごいなあ。
生命の生々しさ
また、本書では、家族の脆いようで強い奇妙なつながりや、老いの何とも言えない不快さ、が繰り返し描かれます。
義理の年老いた「ハハ」と衝突しつつも、なあなあと暮らす私(「がらがら、かきがら」)。
嘘つきで乱暴な祖母にぶたれながら育つ孫娘(「ぶつひと、ついにぶたにならず」)。
祖母を置き去りにした海岸を息子と歩く「私」と、自分の棺舟を彫る老いた漁師(「古代海岸」)。
ここで描かれる老いた人間は、痴呆的で、小便の臭いがうっすら立ち込め、強情で、決して美しいものではありません。
老いる、ということが、装飾なくありのままの言葉にされています。
生きていれば老い、老いれば臭い、忘れ、いつか死ぬ。あまりの生々しさに圧倒されます。
生きよ、と背中をおす声
本書の語りは、人の老いをパンデミック後の退廃的な世界にオーバーラップさせ、混乱と絶望の後の、虚無と喪失、悪い未来の予感を描きます。
しかし著者は、その中に湧いてくるわずかな希望を私たちに見せます。
希望とは、馬鹿者の持つ幻想だろうか。だが希望とは、祈るような無力なことではなく、願望でもなく、確信なのではないか。そう、確信だ。必ず、わたしたちはたどりつける。いまよりよき場所へ。いまだかつて、わたしたちがとったことのない方法をもって。(がらがら、かきがら)
現実はいつも期待したほどでなく、予想外のことが常に起こる。それが良いことであろうと悪いことであろうと。悪いことのほうが、いつも少しだけ上回っているように感じても、実は良いことのほうが多い。世界が少しずつ崩壊を始めていたとしても、今日はまだ終わったわけではない。(聖毛女)
そして、最後の短編「匙の島」では、神話のような命の誕生が語られます。
島で生まれた赤ん坊の顔を覗き込んだ「フミ」は、そこに、古代の海から羊水の海へ、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類と続く進化の過程を幻視します。
生きることの反対語は死ぬことではない。生きることと死ぬことは裏返しの同じこと。生きよ、フミ。どこからか、やってきた声が、その時、フミの背中をどしんと突いた。(匙の島)
著者の描く生命は、生々しく柔らかく、まばゆいような色彩に満ちているようです。
生きよ、と私も背中おす声をどこからか聞いた気がしました。
今回ご紹介した本はこちら