『ハイパーハードボイルドグルメリポート』上出遼平 | 【感想】衝撃の深夜グルメ番組の書籍版・食を追うことで見える咀嚼できない圧倒的現実
今日読んだのは、上出遼平『ハイパーハードボイルドグルメリポート』です。
テレビ東京の深夜枠として放送された異色のグルメ番組ですが、わたしはNetflixで昨年くらい?に見ました。
「ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ!?」をコンセプトに、世界のアングラな人々のリアルな日常と食を追った、なんというか、凄まじいとしかいいようのない番組でした。
この内容をよく放送できたなあ、とか言う前に、よく取材してきたなあ、と感服したのを覚えています。
書籍化されていたとは露知らず、たまたま書店で見つけたのを即買いしました。
番組では明かされない取材ネタとか書いてあると面白いな、ぐらいの気持ちで読み始めたのですが、もう!全然!そんなレベルの話ではありませんでした!
最初から最後まで、ガツンとガツンと食らいっぱなしで、読後はなぜか、清々しささえ感じてしまいました。超激辛な読書体験でした。
すげーな、これ。
では、あらすじと感想などを書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
脳内麻薬がドバドバでます。
刺激的な読書をお求めの方におすすめです。
書籍版と番組バックナンバーとの違い
書籍版は、番組のバックナンバーに比べ、収録されているエピソード(国)が少ないです。
・リベリア編
・台湾編
・ロシア編
・ケニア編
この四国しか取り上げられていません。
しかし、内容が濃い。濃すぎる。
考えてみると当たり前で、テレビは「撮れ高」が必要ですが、書籍には映像は必要ないので、「撮れ高」関係なく、起こったことをありのままに書けます。
もちろん、人が見て書く以上、本物の「ありのまま」なんていうものはあり得ないのでしょうが、著者の上出遼平さんの書きぶりからは、なるたけ事実のみを読者に伝えようという、心意気のようなものが感じられました。
人はどんな場所でもモノを食う!
しかし、この上出さんという方、読んでいるこちらがハラハラしてしまうほど、どんな危険な場所にでも、ずんずん突っ込んでいくし、聞きにくい質問はするし、読んでいてこっちの心臓が持ちません。
内戦の傷生々しいリベリアでは、戦地で少年兵が人肉を食べていた、という噂を聞きつけ、元兵士が住む廃墟(超危険)に突入していきます。
もちろん、刃物を持った集団に脅されたりしますが、なんとか切り抜けます。
ここまでで、小心な私などは、もうお腹いっぱいなのですが、
「皆さんは人を食べたことはあるんですか」
ー沈黙が訪れる。
そりゃ沈黙しかないでしょう。
こんな調子でいつ危ない目に合うか、気が気でありません。
なんというか何もかもがダイレクトというか、遠慮とかそういうものとは無縁な世界を終始見せ続けられます。
というより、著者が炙り出す人々の生活には、遠慮・憐憫・躊躇、そういった私たちが使い慣れてもう手放せないクッションのようなものが一切存在しません。
著者は、「彼ら」に尋ねます。
「どうしてここに暮らしてるんですか?」
「なんで戦いに参加したんですか?」
「そもそも皆さんはなんでマフィアになったんですか?」
「ここでの暮らしはどう?」
私だったら、と考えると、多分こういう質問はできません。
なぜなら、彼らの生活や人生が、悲惨で、汚くて、不気味で、理解不能で怖い、とはじめから思ってしまっているからです。
はじめからそう決めつけてしまっているから、その人に対峙しても何も言えないし、何も質問できないと思います。
悲惨で、汚くて、不気味で、理解不能で怖い答えが返ってくるのが怖いから。
彼らの、著者の質問への答えは明確です。
お金がない、親が死んだ、他に住む場所がない、生まれたときからそう決まっていた。
貧しく、親がなく、食べるために住むためには、犯罪に手を染めるし、ゴミ溜めにだって住む。
単純で理解しやすい図式です。
でも、単純で理解しやすい図式の裏には、一切の言葉を奪うような個人の体験の重さがあります。
「だからあんたみたいにここを訪ねてきた人に俺たちのことを知ってもらいたい。子どもを学校にやるチャンスが欲しい。俺たちはもう歳をとったから何も望まない。唯一の希望は子どもたちの未来だ」
フルトンは僕の目を見て続ける。
「誰かの助けが必要なんだ。子どもたちに食べ物と教育を与えてほしい。それだけが俺たちの夢だよ」
ケニア最大のゴミ集積所・ダンドラ・ゴミ集積所に25年住み着くピーター、
「生活はどうってこともない。だけど、俺は家族に会いたい。家族と一緒に過ごす時間だけが俺の幸せだったんだ。自分がこの先どうなるかわからない。だから、とにかく家族と暮らしたい」
著者の出会う人々は、それぞれに過去を持ち、時に戦い、時に法を犯し、そしてそれでも痛々しいほど未来に望みを持っています。
彼らの世界の正義やモラル、彼らの人生は一切理解不能です。
著者は、そういった現実をそのまま読者に差し出します。
巨大な現実だけがごろりと目の前に差し出され、咀嚼することも飲み下すこともできない、ある意味苦しい読書体験を強いられます。
しかし、哀しいことなのか、喜ばしいことなのか、人はどこでも飯を食う!
極寒のシベリアでも、マフィアが集う豪華な会食でも、有害な煙漂うゴミ山でも、そして、今キーボードを叩く私がいる日本でも、人はお腹を空かし、食べる。
どんな人間でも腹が空くし、生きるためには食べるしかない。
その事実だけが、私と「彼ら」を結んでいる。
あまりの理解不能さに、そうか、そのことだけ見せたかったのかなあ、とぼんやりしてしまいました。
著者の取材態度
著者は、テレビマンとして、言うなれば日本人の娯楽のために、「ヤバい人々の飯」を撮り続けているわけですが、そのことについて、自分の主張や言い訳をくだくだ書いたりはしません。
書かなくても、どんな危ない場所でも踏み込んで、カメラを向け続ける態度が、その姿勢や生き方を何より物語るからでしょう。
カメラを向けることが、一種の暴力であることを、著者はきちんと読者に提示します。
それだけに、終盤、自らの感情に揺れる箇所に胸を打たれます。
僕は取材をするときに、誰かを哀れむようなことだけはすまいと思っていた。実際、これまでのどんな取材でも、それは一度としてなかった。僕が僕自身と交わした牢固たる取り決めだった。
しかし、18歳のケニア人の青年が頭からゴミを浴びながら働く姿に、著者はつい憐憫の情が湧き上がるのを抑えられなくなります。
2015年に死去した詩人・長田弘は次のような詩を書いています。
100%のイエス、でなければ100%のノーという考えかたは、信じることができない。
あれかこれかという二分法の思考でことを簡単にすることは、
どんなにたやすくとも、たやすいぶんだけ、
言葉をうそハッタリにしてしまう。
言葉の材料は、51%のイエスと、そして49%のノーなのだ。
信じられるのは、49%のノーを胸に、51%のイエスをいおうとしている言葉だけだ。(長田弘 「感受性の領分」より)
哀れむことだけはすまいと決めていたのに、どうしても抑えることができなかった著者は、けれど、すぐにその気持ちを振り払います。
たどたどしい考えかもしれませんが、このルポルタージュが単なる娯楽を越え、確かな説得力を持って私たち読者に迫るのは、著者である上出遼平さんが、「49%のノーを胸に、51%のイエスをいおうとしている」からではないか、と私は思いました。
一人の妻として
著者の上出遼平さんは妻帯者でいらっしゃるそうですが、もし自分の夫がこんな危険な仕事をしていたら、と考えると、心臓が潰れるような気持ちがします。
事実、有害物質を吸って喘息になったり、現地人から投石されたり、クレジットカード落としたり、これらを受け入れる奥様の度量にいち妻として感服します。
ルポ中には、奥様のことは決して多くは書かれていないのですが、読んでいる間、ああ、きっと奥様に支えられて大変な仕事をこなされているのだろうな、と感じられました(特に、旅から帰って家で食事するとお腹を下す、というくだり)。
巻末、謝辞にこのように書かれています。
あと、自信を失った時にいつも勇気づけてくれた妻。
僕はあなたと旅に出たくて、この本を書きました。
いつも、ありがとう
ちょっと、照れくさそうな著者のお顔が見えるようです。顔知らないけど。
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