『神様のボート 』江國香織 | 【感想】恋に狂った母親と娘の放浪の日々、母娘の蜜月とその終焉までの遥かな旅路
1999年の作品なので、結構前の話になるのでしょうか。
「神様のボートにのってしまったから」と言い、消えてしまった恋人を待ち放浪し続ける母親とその娘、という不思議な設定を、江國香織らしい上品さで静謐に描いています。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
静かで落ち着いた小説を読みたい方におすすめです。
母と娘の幸せな時間とそれが終わるまでの長い旅路を共に歩んでいるような気持にさせてくれる小説です。
恋愛の夢の中に生きる母・葉子
母親の葉子と草子の母娘は、決まった土地に定住せず、引っ越しを繰り返すという不思議な生活を送っています。
葉子が十年も前に姿を消した恋人、草子の父親である''あのひと''との恋に完全に囚われてしまったからです。
必ず迎えにくる、という言葉を盲目的に信じ、葉子は理屈に合わない引っ越しを繰り返します。
場所はどこでもよかった。高萩が思いのほか居心地のいい町だったので、予定よりもはやく引越すことにしたのだ。うっかりしてこの町になじんでしまうのがこわかった。それがどんな場所であれ、なじんでしまったらもうあのひとには会えない気がするから。
ーかならず戻ってくる。
あの暑い九月の午後、あの人はそう言った。
ーかならず戻ってくる。そうして俺はかならず葉子ちゃんを探し出す。どこにいても。
葉子には当時、''桃井先生''という夫がいて、''あのひと''にも妻がいたことが、物語中で明かされます。
常識的に考えれば、十年以上前にいなくなった恋人が戻ってきて見つけ出してくれるなんて、夢でしかないでしょう。
なじんでしまったらもう二度と会えない気がする、そんな不確かな理由で転居を繰り返し、そのたびに''あのひと''以外の過去を捨てていく母娘の姿は、現実離れしてまるで夢のなかのようです。
まさに葉子は恋愛の夢のなかに生きているのしょう。
''神様のボートにのってしまった''とは、そんな静かな狂気に足を踏み入れざるを得ないほどの恋をしてしまったことを指しているのではないでしょうか。
母と娘の蜜月とその終焉
葉子は、どの町でも人の顔を覚えず、物に執着せず、未来を考えようとしない、ふわふわした女性に描かれています。
それに対し娘の草子は、普通に友達をつくり、近所の出来事に気を配る、幼いながらしっかり者です。
草子が幼いうちは、母親の夢のなかに住んでいられた2人も、その対照的な性格により、徐々に溝を深めていきます。
母と娘の放浪とその愛憎を描いた作品といえば、桜庭一樹の『ファミリーポートレイト』を思い出します。
『ファミリーポートレイト』の母と娘の放浪が悪夢のような幻想と愛憎に満ちていたのに対し、『神様のボート 』でのそれは、内に静謐な狂気をはらみながらも、慈しみと温もりを感じさせますが、母と娘の幼い間だけの共犯関係のような、一瞬の忘れがたい幸福を描いている点は共通していいます。
しかし、『ファミリーポートレイト』でも『神様のボート 』でも、幸福な夢は永遠には続きません。娘はいつまでも母親の夢のなかに一緒に住んではくれません。
草子は、母親以外の自分の世界を獲得するため、母親から飛び立とうとします。
放浪と夢を望む母と、定住と現実を望む娘。
2人の対決は、母と娘の蜜月の終わりを象徴します。
そして、娘にとって成長し旅立つことは母親への裏切りでもあります。
ーごめんなさい。
小さな声で、苦しそうに草子は言った。
ー何をあやまるの?
草子は泣きじゃくっていた。泣きじゃくって、泣きやもうと洟をかみ、また泣きじゃくった。そうしてそれから湿った声で、
ーママの世界にずっと住んでいられなくて。
と、言ったのだった。
風がつよい。
先に挙げた『ファミリーポートレイト』でも、成長を止められない娘の母親への罪悪感が描かれています。
あたしはまた目を閉じる。
ごめんね、ママ。
こんなにおおきくなってしまって。
成長することで、大事なママを裏切ってしまって。
こうしてみると、母と娘という関係はなんて強くて甘くて哀しいんでしょう。
親子として慈しみあい、成長すれば同性として意識し、必ずいつか別れなくてはならない。
この世に母と娘以上に強くて哀しい結びつきがあるでしょうか。
草子が泣きじゃくりながら母親に決定的な別れを告げる上記のシーンは、かつて娘であり、今は母であるかもしれない全ての女性の心に響くのではないでしょうか。
今回ご紹介した本はこちら
桜庭一樹『ファミリーポートレイト』はこちら
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