『無暁の鈴』西條奈加 | 【感想・ネタバレなし】仏は、浄土は、何処におわすのか。飢餓と貧困の世に一人の男の辿り着く遥かなる境地とは。
今回ご紹介するのは、西條奈加『無暁の鈴 (光文社文庫)』です。
今作は受賞後の初文庫化作品とのことで、気になり手に取ってみました。
自らも殺人に手を染め、飢餓と貧困の地獄図を目の当たりにした僧の一生を迫力ある筆致で描いた作品です。
生半可の覚悟では読み切れないと思い、エイヤっと気合を入れて一気に読破しました!
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
貧困と飢餓と格差、あらゆる理不尽と自らの罪と向き合い続けた男の行き着く果てとは。
おすすめポイント
宗教とは何のためにあるのか、そんな疑問を持たれている方におすすめです。
主人公が何がしかを掴み取るために悩み苦しむ物語が好きな方におすすめです。
江戸時代の流刑制度や出羽三山の行者修行の歴史などが詳細に書かれています。そういった時代背景に興味がある方にもおすすめです。
宗教は何のためにあるのか
「仏はあるのか」「極楽はあるのか」
無暁が生涯求め続けることになる問いです。
無暁は幼いころから貧しい村の寺に預けられていましたが、ある時いつもにこやかな住職のおぞましい本性と、貧しい檀家から銭を巻き上げる寺の欺瞞に気付いてしまいます。
それまでかすかにでも信じていたものが足元から崩される失望、さらに唯一の心の支えであった村の娘・”しの”を襲う残酷な出来事と自死により、無暁は一度完全に絶望してしまいます。
無暁は、その日から僧であることをやめ、寺を飛び出し、江戸で任侠に身をやつします。
しかし、そこで大切な人の仇を討つために、殺人に手を染めてしまいます。
どこに行っても、自然は容赦なく人間に襲いかかり、弱い人々はただ飢えにあえぎながら、ひたすら耐え忍びます。
恩赦を得て更なる求道の道に入った無暁は、自らの足で陰惨を極める飢饉の現実を目に焼き付けます。
祖母が幼い孫を足蹴にし、わずかな食べ物を奪う姿も見た。先に死んだ兄弟の、死肉を漁る者もいた。それすら、序の口に過ぎなかった。
飢餓が極まると、人は人を殺め、その肉すら食らう。子供を手にかけた親が胸にかぶりつき、あるいは隣人の頭蓋に匙を差し入れて、脳味噌を引き出す者もあった。
所詮僧侶は何を生むわけではない。無力感に打ちひしがれる無暁は、ただひたすら問い続けることしかできません。
「仏はあるのか」「極楽はあるのか」そして「宗教は何のためにあるのか」
生への執着
物語を通じて描かれるのは、人間のどうしようもない矮小さ、生にみっともなくしがみつくみっともなさ、です。
それに比べ、自然は雄大に厳しく描かれます。
自然の前で、人間はいかにも愚かで矮小です。
度重なる飢饉、蝗害、嵐、あらゆる苦難に人間はただ耐え忍ぶだけです。
しかし、いかにも弱い人間である私たちは、その儚い生にみっともなくしがみつこうとします。
八丈島の流刑人頭・蓑八は十五も年下の無暁をよく気にかけ、村人との仲を取り持ってくれた頼りになる男でしたが、そんな男の最後の叫びはみっともなく、みじめで悲痛なものでした。
「死にたくねえ……死にたくねえよお! あんなところには行きたくねえよお!」
死は誰にとっても平等で、死の前ではどんな人立派な間も根源的な恐怖から逃れられない、死ぬときは誰でもたった独り、そんな残酷な現実が突きつけられます。
この世のあらゆる死苦に身をひたし、想像を絶する荒行に挑む無暁には、己の死はどのように受け入れられるのか。
彼の至った三昧の境地をぜひ、本書で読んでみてください。
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