芥川賞を全作読んでみよう第3回その1『コシャマイン記』鶴田知也 |【感想】 アイヌの誇り高き酋長の末裔コシャマインの悲劇的な死を抒情詩的にうたいあげる
芥川賞を全作読んでみよう第3回、その1では、鶴田知也『コシャマイン記』をご紹介します。
芥川龍之介賞について
芥川龍之介賞とは、昭和10年(1935年)、文藝春秋の創業者・菊池寛によって制定された純文学における新人賞です。
受賞は年2回、上半期は、前年12月から5月までに発表されたものが対象、下半期は、6月から11月までに発表されたもの、が対象となります。
第三回芥川賞委員
菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作、横光利一、川端康成。
第三回受賞作・候補作(昭和11年・1936年上半期)
前回の第二回が受賞作なしだったので、第三回は二作を受賞作として挙げたようです。
受賞作『コシャマイン記』のあらすじ
感想
題材について
第一回受賞作の『蒼氓』が、1930年代のブラジル移民という時勢に沿った題材だったので、和人のアイヌ迫害の歴史を古風な文体で綴った『コシャマイン記』に少々めんくらいました。
本書の受賞については満場一致で決定したようで、菊池寛の選評では以下のように評されています。
「コシャマイン記」は、古いとか新しいとか云うことを離れて、立派な文学的作品であると思った。委員諸君の同意が得られない場合にも「文藝春秋」に再録したいと思っていたが、殆んど満場一致で入選したことは、嬉しかった。
時勢に沿った題材でなくとも、文学的に素晴らしい作品には受賞されるということですね。
物語の徹底的な悲劇性と透徹な神性
和人に殺されたアイヌの酋長の子供であるコシャマインは、母と共に逃れ、いつの日かアイヌの部族をまとめ和人に立ち向かうことを誓いますが、村から村へ逃れいくうちに、母は老い、妻との間に子は為せず、最後は日本人に騙されてリンチされ死んでしまいます。
その抒情的で朴訥とした文体を追ううち、自分がまるで囲炉裏を囲んで先祖の英雄譚を聞かされる子どもになったかのような心持ちがしてきます。
特に、コシャマインの母親が、自分が生き永らえてきたのは何のためだったのだろう、と嘆く場面ではその悲痛さが胸をうちます。
生き永らえるよりは、コシャマインとその母をかばって死んだ父親の部下キロロアンのように誇りがあるうちに倒れたほうが良かったのかもしれません。
最期は祖先や父と同じように日本人に騙されて殺されるコシャマインですが、祖先や父が英雄として死んだのに対し、コシャマインは結局、母に望まれたような英雄にはなれず、部下の一人も持つことなく、単身で和人の一矢報いることもできず、たった6人の日本人それも下っ端開拓民に殺されます。
しかも、日本人に対する脅威として殺されるのではなく、ただコシャマインの妻の身体目当てに殺されます。
その徹底的なまでの悲劇。
しかし、その透徹なまでの描写には、あたかも神性が宿っているかのように厳かです。
川に流されたコシャマインの死骸が、鴉や獣に食い荒らされる最期の描写には、悲劇や悲痛さを超えた神聖さすら宿っているように感じました。。
コシャマインの死骸が、
薄氷 の張った川を張った川をゆっくりと流れて下り、荒瀬にかかって幾度か岩に阻まれたが、ついに一気にビンニラの断崖の脚部に打つかった。それから、かつて神威 が年ごとに訪れ給うたカムイミンダラの淵に入って、水漬 いている楓の下枝に引っかかってそこに止った。やがて氷が淵を被うた。そしてわずかに氷の上に見えていたコシャマインの砕けた頭部を、昼は鴉どもが、夜は鼠どもが啄 んで、その脳漿 のすべてを喰らい尽くしたのであった。
今回ご紹介した本はこちら
芥川賞を全作読んでみよう第2回 | 受賞作なしの裏側で躍動する歴史のドラマ
芥川賞を全作読んでみよう第2回は、第2回にしてなんと”受賞作なし”です。
ちょっとがくっときましたが、色々調べるうち、その裏側にはうねる歴史と人間のドラマがあることに気が付きました。
結構面白かったので、今回は、そのあたりを書いていきたいと思います。
芥川龍之介賞について
芥川龍之介賞とは、昭和10年(1935年)、文藝春秋の創業者・菊池寛によって制定された純文学における新人賞です。
受賞は年2回、上半期は、前年12月から5月までに発表されたものが対象、下半期は、6月から11月までに発表されたもの、が対象となります。
第二回芥川賞委員
菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作、横光利一、川端康成。
第二回受賞作・候補作(昭和10年・1935年下半期)
手元にある文藝春秋刊行『芥川賞全集』によると、第2回は7月~12月までに発表された作品の内から選ぶことにした、とありますので、今とは対象期間が1ヶ月ずれていたようです。
二・二六事件との遭遇
第一回芥川・直木賞委員会を、二月二十六日二時よりレインボウ・グリルに開く。恰も二・二六事件に遭遇したので、瀧井、室生、小島、佐々木、𠮷川、白井、の六委員のみ参集、各自の意見を交換した。
𠮷川、白井は直木賞委員であった𠮷川英治、白井喬二なので、芥川賞委員として集まったのは11人中4人だけだったということになります。
4人だけでは、おそらく大した話はできなかったんじゃないかな~、と思います。
ただし、二・二六事件に遭遇したことで審査が中止になった、というわけではなさそうです。
おって、第二回委員会が3月7日に同じく レインボウ・グリルで開催され、このときは11人中8人が参加しています。
この第二回の詮議において、上に挙げた候補作が挙がったようです。
しかし、委員中に未読の者もいたので、3月31日までに各自読んで推薦文を書き、これを投票の代わりとすることにしたようです。
しかし、これが受賞作なしの結果につながってしまいます。
各選評委員の推薦作と波乱
各選評委員の推薦作をざっとまとめると以下のようになります。
ものの見事に票が割れてしまった形になります。
決定的推薦文を認めて之を投票に代える事にして解散した処が、別掲の如き結果を生み、ついに芥川賞は今回に限り受賞に該当する者がなかった。
ちなみに直木賞のほうは全委員一致で、鷲尾雨工『吉野朝太平記』に決定したようなので、第二回の芥川賞は全員が推すような突出した作品が無かったということなのかもしれません。
詮議の裏に潜む人間ドラマ
私が興味深いな、と感じたのは、選評委員の一人、瀧井孝作の推薦文です。
他の選評委員の推薦文が500字~800字ほどあるのに対し、瀧井の推薦はたったこれだけです。
川崎長太郎君を推す。川崎氏を推す迄には種々経緯もあるが、今は父の死に会って飛騨へ急いでいるので、何も書いていられない。次号にでもゆっくり書く。(談)
1936年は岐阜県高山市の指物師であった瀧井の父・新三郎が死去した年です。
父の死に急ぎながら、とりあえず仕事だけは最低限済ましておく、そういう焦りが字面から感じられるようです。
選評委員も人間なので、裏側ではいろいろなことが起こっているんだな、と改めて考えてしまいました。
さて、ここでちょっと、考えてみたことがあります。
第一回において、瀧井は久米正雄から「見渡したところ瀧井が一番閑がありそうだから」という理由で、候補作の絞り役に抜擢された経緯がありました。
そして、父の死という大事にあたっても、推薦作について一声かけておくという行為から、当時、瀧井は委員のなかでも弱年だったのではないか、と思いました。
そこで、1936年3月31日当時の委員の年齢(満年齢)を調べてみました。
最年少は、当時36歳の川端康成で、その次に若かったのが、37歳の横光利一、その次が41歳の、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作となります。
どちらかといえば、委員のなかでは若いほうとも言えますが、最年長で賞の創業者である菊池寛が47歳で最年少の川端康成とは11歳の差しかないので、芥川賞委員全体が、同年代で運営されていた、といったほうが良い気がします。
どちらかといえば年少なので気を使った可能性も捨てきれませんが、仕事に関して真面目な方だったか、当時まだ知名度の無かった芥川賞の運営について責任感があった、と解釈したほうが良さそうです。
仮定は外れましたが、なかなか興味深い結果だったので満足です。
瀧井孝作の代表作
今回取り上げた瀧井孝作の代表作はこちら
芥川賞を全作読んでみよう第1回 『蒼氓』石川達三 |【感想】 棄てられた民たちの諦念と悲哀が現在の弱者とリンクする
芥川賞を全作読んでみよう第1回は、石川達三『蒼氓(そうぼう)』です。
芥川龍之介賞について
芥川龍之介賞とは、昭和10年(1935年)、文藝春秋の創業者・菊池寛によって制定された純文学における新人賞です。
菊池寛と芥川龍之介は盟友で、芥川の葬式で弔辞を読んだのも菊池寛でした。
受賞は年2回、上半期は、前年12月から5月までに発表されたものが対象、下半期は、6月から11月までに発表されたもの、が対象となります。
第一回芥川賞委員
菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作、横光利一、川端康成。
第一回受賞作・候補作(昭和10年・1935年上半期)
文藝春秋刊行『芥川賞全集』によると、第1回である、昭和10年(1935年)上半期の対象作品は、1月~6月までに発表された作品から、第2回は7月~12月までに発表された作品の内から選ぶことにした、とありますので、初期は対象期間が今より1ヶ月ずれていたようです。
また、選評によると、候補者について、「文壇各方面に百数十通封書をもって本年上半期の新進、無名作家の作品の推薦を求む」とあったり、選評委員の瀧井孝作がの選評に、
この春三月ごろ、芥川賞の候補者について、佐々木君と一寸話した折り、ぼくは川崎長太郎氏が佳い短編を二つ三つ出した、と云ったら佐々木君は、川崎長太郎と云う人は、新進作家でもあるまい、名前は古くから知っていると云い、ぼくは、以前から書いている人でも近頃冴えがみえてくれば新進作家と云ってもよいのではないかしらと、話したりした。
とあるので、やはり最初は、候補作の選評基準について、いろいろ試行錯誤した様子が伺えます。
最終的には、文藝春秋の社内で30人くらい選んで、その中から瀧井孝作が10人ほど候補を選び、それを7月24日の第2回委員会で審議して候補作としたようです。
ちなみに、瀧井が候補絞りをすることになったのは、同じく選評委員の久米正雄曰く、「見渡したところ瀧井が一番閑がありそうだから」だそうです。わはは。
また、候補作に太宰の名前があることに、ちょっと嬉しくなりました。
今では有名な芥川賞も、はじまりがあって、その中で人が選んでいるんだなあ、と実感しました。
受賞作『蒼氓』のあらすじ
物語の時代背景と感想
時代背景
ブラジルが正式に日本人移民をけ入れるようになったのは、1900年代初頭。
移民公募では、ブラジルでの高待遇や高賃金をうたっていましたが、実際はコーヒー農園等で過酷な労働環境にさらされることが多く、移民のことを”棄民”と揶揄する声もかったようです。
また、物語の舞台となる1930年代になると、満州事変、日中戦争などにより、日本人移民排斥の動きも巻き起こります。
本書で描かれる1930年は、この前夜の出来事と言えます。
弱者の愚かさとその普遍的な哀しみ
故郷の農地を捨て、異国での暗い未来にすがらざるを得ない貧農たちの姿には、弱いものから切り捨てられていく、という現在にも通ずる法則を感じずにおれません。
神戸港の移民収容所に集められた移民たちは、秋田や青森など地方から集まった貧しい農民ばかりです。
なかでも目を引くのが、紡績工場の女工であった夏とその弟の孫市です。
「満五十歳以下ノ夫婦及ビ其ノ家族ニシテ満十二歳以上ノ者」という条件を満たすため、お夏は孫市に言われるがまま、孫市の友人の勝治と偽装結婚してそこにいます。
お夏は貧しさというものにすっかり慣れ切ってしまっていて、抵抗する力を根こそぎ奪われてしまったような女性です。
本当は、同じ紡績工場に勤めてた堀川という男から結婚を迫られ内心その気になっていたのですが、弟の孫市の「一年で帰ってくるから」という頼みに折れてしまいます。
更に、移民監督助手の小水が自分に不埒な行いをしても、男とはそういうものだから、すぐ横で眠っている弟に助けを求めもせず、諦めて身を任せてしまいます。
そんな静謐な諦めに満ちた姉と対照的に、弟の孫市はよく言えば素朴、悪く言えば鈍感で無教養な田舎者として描かれます。
姉に偽装結婚までさせて引っぱってきたのに、偽装結婚相手の勝治の弟・義三に、「兵役が怖くて移民しようとする不忠義者」と揶揄されたことにカッとなり、あろうことか、「不忠義者と言われたくないから移民をやめる」、と言い出します。
孫市の姉のお夏の偽装結婚なくしては、二家族全員での移民は叶わないのですから、孫市を不忠義者などと言い出して話をまぜっかえすような真似をする義三という男は愚かも愚かですが、それに過剰に反応する孫市も軽率で肝が据わっていません。
しかも、それを仲裁するのが、昨晩お夏に不逞を働いた移民助監督の小水というのですからつくづく救われません。
小水は、孫市に呼び出されたとき、お夏に自分がしたことがバレたのでは、と内心ヒヤヒヤしていたのですが、話が田舎者同士の益体も無い揉め事と分かるやホッとして、いけしゃあしゃあと仲裁に入るのです。
このときの、お夏の気持ちを考えると、女性としていたたまれない気持ちになります。
孫市はその後も、自分は不忠義者と思われたくない、などと自分のことばかりで、姉宛てに男の名前で手紙が来ている意味に鈍感にも気付くことができません。
また、一年でお金を貯めて帰ってくる、と意気込むものの、同じ移民の麦原という男に、帰りの二人分の船賃を一年では到底稼げないという、至極当たり前の事実を突きつけられ、狼狽します。
本書で描かれる人々はみな愚かです。
しかし、その愚かさは、現在の視点から見るから愚かなのです。
私は、当時から60年以上たった日本で生まれ、戦争を一度として経験せず、大学という高等教育機関を卒業し、この世の中の仕組みについて、そして歴史について、十分な教育を受けて育ちました。
私は、孫市や夏にこれから襲い掛かる大きな歴史の波を知っています。
だから、本書に登場する人々が、あまりに愚かで哀しく思えるのです。
本書でブラジルへ行こうとする移民は、おそらくは尋常小学校を卒業したかどうかも怪しいほど貧しい農民ばかりです
貧しさ故の無知さに付け込まれ、遠い外国に棄てられるように旅立たつことを余儀なくされた弱く愚かな人々、その姿は、80年後に振り返った自分の姿かもしれない、そんな普遍性を感じる作品でした。
芥川賞受賞作となったのは、神戸港の収容所から渡航までの日々を描いたものですが、この後、船内とブラジル到着後を描いた第二部、第三部を合わせ長編として刊行されています。
一読の価値ある力強い作品でした。
今回ご紹介した本はこちら
『奴隷小説』桐野夏生 | 【感想・ネタバレなし】「私たちは、泥に囲まれた島に囚われている」、異様な想像力が構築する”奴隷たる者”の世界
「奴隷的状況」を題材とした短編を集めた作品集で、身体的にまたは精神的に束縛され、自由を奪われた人々の姿が豊穣な想像力の世界で立ち現れます。
本書を読むことで、奴隷であるとはどういうことは、翻って、自由であるということはどういうことなのか、ヒントが得られたように思います。
それでは、各短編の感想等を書いていきます。
あらすじ
兵士たちに誘拐され泥に囲まれた島に幽閉されてしまった女子高生たち(「泥」)。
長老との結婚を断り舌を切断され、左目をえぐりとられた母を持つ娘に長老との結婚の噂がたつ(「雀」)。
夢の奴隷・アイドルとなった娘を案じる母親(「神様男」)。
年に一度の女とのセックスに夢中になる若い男がとる愚かな行為(「ただセックスがしたいだけ」)。
様々な状況で抑圧され奴隷化する人々の姿が鏡写しのように読む者の奴隷性を引きずり出す。
おすすめポイント
様々な抑圧と奴隷的状況を見ることで、その滑稽さとおぞましさを再認識できます。
自らの置かれている”奴隷的状況”を暴かれたようで、ドキリとします。
各短編の感想
雀
古い因習の残る小さな村らしき場所が舞台です。
村では、長老が絶対的な権力を持ち、何人もの妻を持っています。
また、女は、15歳になると女と嫁に行かされることになっています。
主人公の少女・スズメの母親は昔、当時の長老との結婚を断り、舌を切断され、左目をくり抜かれるという残酷な罰を受けた過去があります。
そして美しく成長したスズメに、現長老との結婚の話が持ち上がります。
村の因習、女と言う性別、絶対的権力、ありとあらゆる抑圧のが詰め込まれた短編です。
スズメは、女という性を最大に生かし、そこから脱出を図ります。
彼女の運命がこれからどう動くかは、読者の想像に委ねられますが、幼い彼女に漂う妖艶さは、長老を代表する”男たち”が最も危惧し恐怖するものなのではないかと思います。
泥
武装した兵士に突如拉致された女子高生らがくだす選択の物語です。
本書中、最も希望の持てる短編であり、絶望的な短編でもあります。
名前をはぎ取られ、1番~96番も番号を付与された彼女らに、兵士は告げます。
「おまえたちは女である。だから、男に所属する物だ。男のズボンや靴と同じように、男の持ち物であり、牛や豚と同じように、男の家畜である。」
私は女です。
はっきり言われたことはなくても、これと同じ意味のことをずっとささやかれながら育ったように思います。
そして、私も、私たちも、毎日、泥に囲まれた島に囚われている気分です。
物語中で、少女たちが、泥のなか選んだ決断に敬意を示したいです。
神様男
夢の奴隷たるアイドルを題材とした短編です。
未成年のアイドルを「年くった」とか「ババア」とかいうおっさんてほんとに見苦しいよな、と思いました。
REAL
数年前に自殺した娘の動機を探し求めて、ブラジルの旧友を訪ねる母親の話なのですが、このお話だけ”奴隷”たる者が誰かハッキリわかりませんでした。
ただ、不穏な空気から、娘の自死の原因は当の母親による抑圧なのでは……と疑ってしまいました。
そして、今度は娘の死に母親が囚われているのでは……。
何か起きるわけではないのに、何故か一番怖い短編でした。
ただセックスがしたいだけ
炭鉱の労働者のもとに、冬の間だけ訪れる謎の女たち。
タイトル通り、「ただセックスがしたいだけ」のために、貧しい蓄えから女たちに貢物をする男たち。
そして、思い余って掘り出した石炭を盗みだしてしまう……。
男ってホント、アホやな……と目頭を押さえたくなる短編でした。
告白
これは私たちが如何にして、少しずつ希望を失ったかという物語でございます。いうなれば、希望の瓶が底を突く、というお話。
自らの絶望を告白することを切望する亡霊の独白。
聞く者として選ばれた若者。
怖い…怖すぎる……。
山羊の目は空を青く映すか Do Goats See the Sky as Blue?
収容所に過酷な労働を強いられ、些細なことで殺される囚人たち。
タンネは、囚人の両親から生まれた子供で、収容所以外の世界を知らない。
本書のなかで、最も”奴隷的”な環境に生きる主人公です。
タンネは外の世界を知らないが故に、自分を「一等囚人」だと誇り、密告の危険から親にも本音を喋ろうとしない身も心も奴隷根性が染みついた子供です。
そんなタンネに、最も過酷な時刻を知らせる鐘撞きの仕事が周ってきます。
高い鐘楼の上からは、タンネははじめてみた”外”の世界。
全く違った価値観の下で生まれても、同じように空は青く見えるのでしょうか?
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桐野夏生の他のおすすめ作品
『バラカ』桐野夏生 | 【感想・ネタバレなし】大震災後の世界をさまよう少女の数奇な運命が圧倒的な疾走感と重量で描かれる
ポスト3.11文学の極北と言って過言ではない巨編でした。
被爆地に突如降臨した少女・バラカ。
彼女の数奇な運命の遍歴と、人々の欲望と弱さのグロテスクさ。
また、全編の根底に流れるミソジニーの根深さにゾッとしたりもしました。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
海外で子どもを買う女性とその友人、酒と暴力で妻子を失おうとしている日系ブラジル人、悪魔になると誓った邪悪な葬儀屋。
少女を中心に、人々の抑えつけられた怒りと欲望が爆発する。
おすすめポイント
あの大震災でこうなってしまっていたかもしれないダークな世界観を見せられます。
男性の持つ本質的なミソジニーが作品の根底を流れているのが、(良い意味で)陰湿で不快感があり考えさせられます。
聖少女
本書の主人公バラカは数奇な運命を辿った末、警戒区域内をさまよっているところを発見されます。
バラカは「神の恩寵」という意味です。
その神秘的な生い立ちと、甲状腺ガンを患い生還したことで、「放射能は危険で被爆はまだ続いていると主張するグループ」、「放射能の危険はすでに去ったと主張する国側」、どちらにも”象徴”として狙われることになります。
本人の意思とは関係なく、ある種の”聖少女”としてネット内であがめられはじめます。
しかし、彼女の生い立ちの秘密は、人々のあまたの欲望に翻弄されたグロテスクなものです。
父親と娘・男と女
本書は、ポスト3.11文学であり、父親と娘、男と女の二項対立を深く追求した作品です。
バラカには二人の父親が存在します。
1人は、生みの親のパウロ。
1人は、義父のカワシマ。
パウロは生き別れになった妻子を懸命に探す態度は見せるものの、妻子が慣れないドバイで人身売買に巻き込まれたのは、知恵の足りなかった妻のせいだと決めつけているところがあります。
(実は、酒に溺れた末、安易に海外に働き場所を移したパウロに原因の一端があるのですが……)
しかも、もし成長した娘が妻のほうに似ていたら愛せないかもしれない、と考えるシーンもあります。
まじふざけんな!
無意識に女性を自分より弱く愚かな生き物だと思っているのです。
カワシマの場合は、もっと邪悪です。
ある出来事から、この世の邪悪をすべてなぞってやると決めた彼は、意図的に周囲に不幸をばらまきます。
彼は女性に対し憎悪をたぎらせています。
頭が悪くて面倒臭いことばかり言って、迷惑きまわりない生物。お前ら、この世から一人残らず消えろ。俺の優性を示すために、子種だけはやるぞ。
カワシマの邪悪さは物語のなかでも突出していて、その悪魔のような所業の数々にはゾッとさせられます。
彼らは、まるで女性が赤ん坊を産むためだけの道具で、そこの知性や論理性を認めていないかのようです。
バラカの同級生の男の子が悪気なく発した一言は、まさにその考えを象徴しています。
「でも、あんたはヒバクしてるから、子供産めないんだろ?」
救われないのは、女性たちまでもが、”産む道具”である女性像をどこかで認めてしまっていることです。
大手出版社に勤める沙羅も、テレビ局のディレクターの優子も、バラカの存在を自分の”産み育てる女性像”を補強するための小道具のように扱います。
しかも、そこに愛情が一片も無かったかというと、そうではない、というところがこの話を更にグロテスクにさせています。
バラカとは何者か
結局、バラカとは何者だったのか、読んだ後もよく消化できません。
人身売買でペットのように売り買いされた少女、放浪する少女。
彼女は、震災からの復興を象徴する聖少女なのか、汚染により棄てられた民を率いるべき象徴なのか。
そのどれでもあり、どれでもない少女。
ただ、何故か、この少女の強く美しい眼差しがこちらをじっと見ているのを感じるような気がします。
この眼差しに、
「お前は、敵だ」
と言われることに怯えながら、これからを過ごさなくてはいけないような予感がします。
今回ご紹介した本はこちら
桐野夏生の他のおすすめ作品
『i』西加奈子 | 【感想・ネタバレなし】この残酷な世界にアイは存在するのか。生きることへの祝福に満ちた物語
「この世界にアイは存在しません。」
アメリカ人の父と日本人の母との間に養子として育てられたアイは、その繊細さと聡明さで、自分の”恵まれた”境遇に罪悪感を抱きながら育ちます。
世界中で沢山の人が苦しく辛い思いをしていることを真面目に受け止めると、ほとんどの人は息が詰まって生きてはいられないでしょう。
これは、その息苦しさのなかを足掻きながら、それでもその苦しさを苦しみのまま受け止めることに決めた少女の生の旅の物語です。
この世界にアイは存在するのか、ぜひ本編でそれを確認してみてください。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
裕福な両親に何不自由なく育てられているのに、その恵まれた境遇がなぜか苦しい。
アイは、世界で悲惨な事件が起きるたび、その犠牲者の数をノートに記録しはじめる。
なぜ、私が選ばれたの?
私は誰かの幸せを奪って生きているの?
切実な叫びを胸に、アイは親友と出会い、大切な人と家族になり、そして胸が潰れるような痛みを経験し、成長していく。
「世界にアイは存在するのか」を探しながら。
おすすめポイント
幼少期、繊細だった方は主人公に共感できると思います。
日々、目にする痛ましいニュースをどう受け止めればいいか分からず苦しんでいる優しい方におすすめします。
幸せの息苦しさ
私は養子ではありませんが、主人公にアイの両親に遠慮してしまう気持ちがなんとなくわかります。
でも、アイみたいに「グッドガール」ではいられませんでした。
高校生くらいのとき反抗期が来たのですが、言いたいことがあっても「生活費出してもらってるから、学費出してもらってるから」とぐっと我慢し、我慢しきれず爆発、ということがよくありました。
母親も喧嘩になると「卒業したらお金は出さない!家からも出ていけ!」みたいな売り言葉に買い言葉のセリフをよく口にしていて、親にお金の話を持ち出されると子供としては言い返せないし、当時は「なんて卑怯な!」と密かに思っていました。
私は能天気なので、次の日にはお小遣いをねだるよーな無神経さを発揮していましたが、姉なんて、いまだにお金のことで言葉の圧力をかけられたのを怨んでいるようです。
でも、結局、骨の髄まで反抗しようと思えば、家を出て働きながら奨学金もらって学ぶ、みたいなことも出来たはずなので、結局、親に甘えていたし、親も甘やかしてくれていたのでしょう。
その”甘やかされていること”をどう消化できるかで、その人の誇り高さが決まるような気がします。
アイは、シリアにルーツをもつ養子で、裕福な両親に恵まれている自分を心苦しく思っています。
貧困や内戦、自然災害、痛ましいニュースが流れるたび、アイは「生き延びてしまった」自分を恥ずかしく思い、恥ずかしく思う自分の傲慢さにまた苦しみます。
アイの親友・ミナはそんな彼女の繊細さを受け止めてくれます。
「誰かのことを思って苦しいのなら、どれだけ自分が非力でも苦しむべきだと、私は思う。その苦しみを、大切にすべきだって。」
しかし、苦しみの当事者になりたい、などという思いが彼女の想像を超えて傲慢だということに、やがて気が付くときがきます。
生きる痛みをどう受け入れるか
胸が潰れるような痛み、悲しみに晒されたとき、彼女は思わず大切な人を憎みます。
なぜ自分が?
あなたも一度でいいからこの傷みを味わえばいいのに。
地獄にいるとき、私たちが求めるのは、救われることではなく、一緒に地獄に落ちてくれる人です。どんなにそれが不合理な願いでも。
そして、追い打ちをかけるように親友・ミナの身にもアイには受け入れがたい事態が訪れます。
アイは泣きます。
どうしてもミナを赦せなくて。赦せない自分に苦しんで。
そして、ミナのもとへ向かいます。
本書には、1988年から起きた世界中の様々な悲劇的な出来事とその犠牲者の数がたびたび登場します。
そのなかには、シリアの内戦や9.11、3.11も含まれています。
おびただしい死者の数と、苦しみの連鎖に、私たちは何て残酷な世界に生きているのだろう、と俯かずにおれません。
この物語は、世界の痛みを全身で受け入れようとする一人の少女のアイデンティティを希求する旅であり、私たちに生きることの限りない痛みと果てのない喜びを示唆してくれます。
自分の降りかかった苦しみを咀嚼し、同じように他者の痛みを受け入れ分かち合うとき、理解できないものを理解できないまま愛するとき、アイははじめて自分の輪郭を世界のなかに認めます。
「私はここよ」
今回ご紹介した本はこちら
西加奈子の他のおすすめ小説
『闇に香る嘘』下村敦史 | 【感想・ネタバレなし】27年間、兄と信じた男は本当の兄なのか、全盲の老人が手探りであの日本当にあった出来事を追う
今日読んだのは、 下村敦史『闇に香る嘘』です。
第60回江戸川乱歩賞受賞作のこちら。著者の下村敦史さんは9年間同賞に応募し続け、5度最終候補に残り落選を経験した先にやっと勝ち取った受賞だそうです。
この経歴だけでも尊敬してしまいます。
中国残留孤児の悲劇的な歴史を綿密な取材に基づいた説得力のあるストーリーでミステリーへと昇華した作品で、主人公が、全盲の高齢男性というめちゃくちゃハードルの高い設定も見所の一つです。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント は
中国残留孤児が晒された過酷な現実が綿密な取材のもと描かれています。
全盲の高齢男性というハードルの高い設定が巧みに生かされています。
終盤にかけ、真実がくるっとひっくり返るミステリならではのアクロバティックな展開が楽しめます。
全盲の主人公といえば
全盲の主人公といえば、乙一『暗いところで待ち合わせ』が第一に浮かびます。
こちらも大好きな作品ですが、『暗いところで待ち合わせ』の主人公・ミチルがうら若き女性だったのに対し、本書の主人公・和久は孫もいる高齢男性です。
しかも、ミチルは思わず助けてあげたくなるような健気さがありますが、和久は視力を失うことに自暴自棄になり、猜疑心が強く、家族を散々傷つけ、愛想をつかされ一人暮らしという、ちょっと難しいキャラクターです。
でも、そこが突然視力を失うことを告げられた昭和の男のリアル~な感じがあります。
妻に対しても、娘に対しても、言わなくても分かるだろ?感満載で甘えて、愛想をつかされてから猛省、という分かりやす~い人間です。
書いてあること全てが罠
主人公は、兄が腎移植を頑なに拒む態度から、兄が偽物なのではないかと疑いを持ち調査をはじめますが、中国残留孤児の支援団体の職員からは脅しめいたことを言われるわ、入国管理局を名乗る人間が接触してくるわ、怪文書が届くわ、不可解で出来事に翻弄され、何が真実で誰が信じられるのか、まさに五里霧中となっていきます。
それに主人公は全盲なので、相手の顔を確認できないので、読者も得られる情報が限られ、手足を縛られたようなもどかしい思いがします。
しかし、終盤にかけ、まるでくるっと天地がひっくり返るような感覚を味わわされ、それまで書かれていたことがすべて著者の仕掛けた罠だったことが分かります。
主人公が全盲という設定、兄が中国残留孤児だったという設定、すべてがこのミステリとしての本書に必要なパズルのピースです。
そういう意味で、この物語は、ミステリとしてしか成立しえないし、ミステリとしてしか生まれなかっただろう、と思います。
中国残留孤児の歴史
本書は、中国残留孤児問題を深く追求した作品でもあります。
正直、恥ずかしながらこの問題について私自身全くの不勉強で、こういう形で歴史を知ることができ、ありがたく思います。
養蚕業の傾きで貧農と化した農民たちは、「満州に行けば肥沃な大地で地主になれる」とささやかれ(その土地は実は関東軍が中国人から取り上げた土地なのですが)、一筋の光にすがり海を越え、そして、敗戦の混乱により大量の残留孤児・残留婦人を生みました。
彼ら、敗戦直後の痩せた国土に大量の帰国民が流入することを怖れた国家により棄てられたのです。
まじで、救われない……。
ちなみに、満州へ移民を最も多く送り出したのは長野県だそうです。へー。
当時は帰国するために、身内が保証人になる必要があり、余裕のない親が保証人になることを拒否するという痛ましいケースも多かったようです。
このあたりの描写は、胸が潰れるようなものばかりです。
最近歴史を題材とした小説を読むことが多いのですが、沢山の物語から私が感じるのは、学生時代、歴史の教科書で丸暗記させられた無数の無機質な言葉の裏には、その時代を生き抜いた人々の苦しみと悲しみ、喜び、怒りが渦巻いていたんだな、という単純な感想です。
これがもう少し早く分かっていれば、歴史の成績ももう少し良かったかもしれません。