書にいたる病

活字中毒者の読書記録

『地球にちりばめられて』多和田葉子 | 【感想・ネタバレなし】言語の可能性が仲間を繋ぐ、国からの解放を朗らかに謳いあげる冒険譚

今日読んだのは、多和田葉子地球にちりばめられて』です。

この著者は海外で高い評価を得ている、と聞いていたので、小心者の読者としては、気にはなるものの、なんか難しそう、と少々敬遠していました。

が!、最近、芥川賞の過去受賞作を順々に読み進めていることで、なんか変なモードに入っていて、とにかく何でも読んでみよう!、と遂に手に取りました。

この本を選んだ理由は、たまたま書店に並んでいたから、というのもあるのですが、最近読んだ、梨木香歩村田エフェンディ滞土録で、国って一体なんなんだろう、という感傷に浸っていて、国を失った主人公が仲間とともに自分と同じ母語を話す者を探す旅に出る、という設定に惹かれたからです。

村田エフェンディ滞土録』の感想はこちら

rukoo.hatenablog.com

この本を読んだことで、母国とは、国境とは、という問いに一定の答えを得られたように思います。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

言語学を研究するクヌートは、ある日テレビで、留学中に故郷の島国が消滅してしまった女性・Hirukoを知る。彼女は、スカンジナビア地方ならなんとなく通じる独自の言語〈パンスカ〉を編み出し、移民として暮らしているという。興味を持ったクヌートは放送局を通じてHirukoと接触し、二人は、Hirukoと同じ言語を話す者を探す旅に出る。途中、インド系の女装家・アカッシュ、グリーンランド出身の鮨職人・ナヌーク、イベント主催者・ノラが加わる。言語が、地球にちりばめられた仲間をつなぐ希望を描いた冒険譚。

おすすめポイント 

・多言語的な小説に興味のある方におすすめです。

・国という枠組みが窮屈に感じつつある方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」

本書には、実に多様な言語を話す人々が登場します。

英語、ドイツ語、デンマーク語、ノルウェー語、フィンランド語、フランス語、etc.

特に面白いは、留学中に故郷の島国が消滅してしまったという女性・Hirukoが、移民としてスカンジナビア地方の各国をめぐるうちに編み出した独自の言語〈パンスカ〉です。

彼女によると〈パンスカ〉は、スカンジナビア地方なら聞けばなんとなく意味が伝わるといいます。

〈パンスカ〉で話すHirukoと、言語学を研究する青年・クヌートとの会話は、独特のリズム感があり、読んでいるだけで心が弾むような対話が持つ本来の喜びがあります。

コペンハーゲンに住んでいるんだっけ?」

「いいえ、オーデンセに棲息。でも今日は宿のシングルが予約されているので、腕時計を見る必要なし。」

また、彼女にとって〈パンスカ〉は、移民として最低限のコミュニケーションを確保する、という意味以上の価値を持っています。

例えば、失われた母国の言葉で、「なつかしい」と発した後に、

自分で言っておきながら「なつかしい」という言葉は霧でできているようで、その霧の中をわたしはおぼつかない足取りでふらふら彷徨っているのだった。自家製の言語パンスカを話している時のほうがずっと足元が確かだ。パンスカならば、「なつかしい」と言う代わりに、「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」という風に表現したかもしれない。そう言ったほうがずっとピンとくる。

「なつかしい」という言葉を使うことで、本来もっと豊かであるはずの感情が、「なつかしい」という枠に収束し嵌め込まれてしまうのかもしれません。

〈パンスカ〉で話している限り、Hirukoはむしろ自由でいられるのです。そして、〈パンスカ〉によって、クヌートをはじめとする仲間と次々繋がっていける。自由だけれど、孤独ではない。

「過ぎ去った時間は美味しいから、食べたい」

国、母なるものからの解放

読み通して思ったのが、国というのは母親のようだ、ということです。

クヌートの母親は、クヌートに対して、少々干渉気味に描かれます。

また、彼女はグリーンランド出身の青年に個人奨学金を出しており、彼に対しても、母親的に振る舞おうとします。

それは、産み育んだのだから、口を出す権利がある、と暗に仄めかしているようでもあります。

先日、梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』を読んでから、私たちは国を超越し友情をはぐくめるはずなのに、それを時に切り裂いていく、”国”とは、一体何なのか、と感傷的になっていたのですが、本書から、国とは、私たちを守り育み、それ故に永遠に束縛しようとする”母なるもの”のようだ、思いました。

私たちは、産み育み守ってくれたが故に、自然と故郷を愛し、母国を愛しますが、その愛ゆえに、どうしようもなく利用されてしまうことがある、ということなのかもしれません。

しかし、本書は、消滅した母国を持つHirukoと彼女の旅に加わる仲間たちを描くことで、朗らかに”母親”からの解放を謳いあげます

もういい、今まで守ってくれて、育んでくれて、だから、もういい、もう守ってもらわなくても、私たちは自由になれる、地球にちりばめられた仲間と。

今回ご紹介した本はこちら

芥川賞を全作読んでみよう第5回『暢気眼鏡 その他』尾崎一雄 |【感想】底辺の貧乏生活を天真爛漫な若妻に寄せてサラサラと描く牧歌的な作品群

芥川賞を全作読んでみよう第5回、尾崎一雄 暢気眼鏡』をご紹介します。

芥川龍之介賞について

芥川龍之介賞とは、昭和10年(1935年)、文藝春秋の創業者・菊池寛によって制定された純文学における新人賞です。

受賞は年2回、上半期は、前年12月から5月までに発表されたものが対象、下半期は、6月から11月までに発表されたもの、が対象となります。

第五回芥川賞委員

谷崎潤一郎山本有三久米正雄佐藤春夫室生犀星小島政二郎横光利一川端康成瀧井孝作菊池寛、佐々木茂索。

第五回受賞作・候補作(昭和12年・1937年上半期)

受賞作

暢気眼鏡』その他 尾崎一雄

候補作

『もぐらどんほっくり』中村地平

『悪童』逸見廣

受賞作『暢気眼鏡』のあらすじ

書けない小説家と生来の暢気者の若妻の困窮生活を牧歌的な筆で描いた表題作をはじめ、人生の辛苦をこだわらないユーモアで捉えた作品群。

感想

貧乏を明るく描く

ちょっと思うのが、受賞作の質にも大分波というか種類があるな、ということです。

第1回の『蒼氓』や第3回『コシャマイン記』はめちゃくちゃ文学然としていて、これぞ純文学!という風格がありますし、第4回『普賢』なんかは純文というにはあまりに猥雑で混沌とした世界に圧倒されます。

そして、第5回の本書はというと…、売れない小説家の困窮生活が割合明るく牧歌的に描かれていて、結構とっつきやすい作品といえるかもしれません。

語り手の”私”は、仕事をしないために妻と離婚、好き勝手に暮らしているために実家とは絶縁状態、友人からは借金しまくりのうえ、若妻・芳枝と暮らす下宿屋にはもう随分宿賃を貯めていて追い出される寸前という絵にかいたようなダメ男です。

しかも、それを悪びれるどころか、金の催促なんかされては、仕事(=小説を書くこと)ができないじゃないか、とうそぶく始末。

うそぶく割には、全然小説を書いている素振りもないのですが……。

そして、若妻・芳枝もその困窮生活を実に暢気に過ごしていて、子猫と遊んだり、夫をおどかして遊んだり、なんかこの夫婦似てるよね~、と思いました。

ここまで、貧乏生活をからっと生きられると逆に芸になっているものがあります。

選考委員もこの点を評価している向きが多いのでは、と感じました。

男女の主人公の性格に凡庸でないものがあって為めに貧乏生活もジメジメした自然は小説から区別されるべき逸脱の趣があった。(佐藤春夫

貧乏の苦味などの自己主観を出さずに、明るく、サラサラと描いた所に、新味があると思った。(瀧井孝作

細君「芳枝」又の名を「芳兵衛」の性格の面白さは無類である。(小島政二郎

今後の期待に寄せて

確かに妙味のある作品なのですが、この作品だけの満足感でいうと、ちょっと物足らないものがあるのも確かです(どうしても『蒼氓』や『コシャマイン記』のすごみと比べてしまうので……)。

しかし、選考委員の評を読んでいると、今後の活躍に期待し、一度世に出さんがために、ここで賞を与えておこう、という思惑も感じられます。

これは、純文学の新人賞という芥川賞の主旨に正しくのっとったものでしょうが、文壇という狭い世界では、選考委員と著者が友人・知人であることも多いのでは?、と思わされました。

特に瀧井孝作の評など、絶対に個人的に付き合いあるだろ、という感じがします。

その意味で、まだまだこの頃の芥川賞選考は緩いな~という印象を持ちました。

筆力だけでなく人間としてもたたきあげたところが見えているのを好もしく思って、この作者に別個の世界を描かせるためにも世の中へ引っぱり出す必要があると考えたからである。(佐藤春夫

君の才能は友人間にはとくに認められていたが、一般的には未だ埋もれている風だから、今回推薦してみた。(瀧井孝作

他に有力な作品が少なかったからでもあろう。しかしまた、尾崎氏の消極的な人徳の然らしむるところであった。(川端康成

書けない作家が書けない事を書いている作品、というものは昔から好きでない。こういう副産物的作品以外のものを一日も早く作者から見せて欲しいものだ。(佐々木茂索)

佐々木茂索が結構厳しくて、ヒヤリとします。

次回は、もうちょっとすごみのある作品が来ると嬉しいです。

今回ご紹介した本はこちら

『たまごのはなし』しおたにまみこ | 【感想・ネタバレなし】シュール?哲学?じわじわ刺さるちょっとひねくれた(?)たまごのはなし

今日読んだのは、しおたにまみこ作の絵本『たまごのはなし』です。

緻密な鉛筆の線で描かれた独特の絵と、そのシュールで哲学的な内容にどんどん引き込まれます。

一見ひねくれてみえる”たまご”の行動が、よくよく考えてみると、本質をズバリと突いているようにも思えてきて、クスリと笑った後で、うーんと頭を捻らされる、いろんな意味でひねくれた大人向け絵本です。

ていうか、たまごがやたら偉そうで笑える。たまごのくせに。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

やあ こんにちは。わたしは たまご。いまから、わたしのはなしを するからね。よく きいておくんだよ。

はじめて動き、はじめて話したときのこと。
マシュマロと一緒にキッチンの外に探検に行ったこと。
ナッツたちのあらそいを解決したこと。
このたまごはいいたまご? 困ったたまご? 
独特の雰囲気に引き込まれる大人も楽しめる絵本

おすすめポイント 

・深く考えさせられる大人向けの絵本が好きな方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

シニカルなユーモアとひねくれた本質

語り手のたまごは、ずっとキッチンに転がっていたのですが、ある日、自分が動けることに気付きます。

動くことが素敵なことだと思ったたまごは、他のたまごも起こしてみようと思うのですが……、というのが導入です。

動くこと、話すことをはじめたたまごは、起こした”マシュマロ”と共にキッチンの外に冒険に出かけます。

そこで、色んなモノにあれやこれやといちゃもんを付けられます

例えば、”うえきばち”には

「たべものが うごきまわるな。みっともない。はやく だいどころへ かえれ!」

”クッション”には、

「あらそう。でも だいじょうぶ? よごれてしまったらとりかえしがつかないわよ」

”とけい”には

「きみたちが ほんとうに うらやましいよ。まいにち なにもしなくて いいんだろ? かってきままに ぶらぶらしてさ」

「まいにち なにかは しているよ」

「ああ、しってる。でも それって やらなくてもいいような ことだろう? やってもいいし やらなくてもこまらない。ぼくのしごとは そうはいかない」 

うわ~、まじでこういうこと言う人、実際にいるよね~、と苦々しい気分になります。

このいちゃもんに対し、たまごは何ともひねくれて、しかし実に本質的な切り返しをします。

この返し方が、シニカルなユーモアにあふれていて、ついクスリと笑ってしまいます。

特に、”クッション”への返し方が秀逸で、ゲラゲラ笑ってしまいました。

哲学的深み

しかし、ひとしきり笑ってしまった後に、ふと、我が身を振り返ってしまう深みがこのお話にはあります。

ナッツたちが、仲間同士でお互いの些細な違いをあげつらって喧嘩するのに対して、たまごが解決(?)方法を提示する話があるのですが、たまごの考えた解決方法は、あまりに乱暴かつ身も蓋もないもので、子どもには面白いかもしれませんが、大人には身につまされる話だな、と思いました。

子どもに話しているようで、思わずぎくりとさせられる油断ならない絵本です。

とにもかくにも、大人も子どもも、一冊、本棚に入れておきたい絵本でした。

今回ご紹介した本はこちら

『沼地のある森を抜けて』梨木香歩 | 【感想・ネタバレなし】新しい命よ、解き放たれてあれ。壮大な命の旅路と震えるほどの孤独と自由、託された夢と可能性に心震える物語

今日読んだのは、梨木香歩沼地のある森を抜けて』です。

叔母から受け継いだ先祖伝来の「ぬか床」という庶民的(?)なスタートから、途中不一気に不穏な雰囲気になり、最終的に、命のはるかな旅路と新しい生命に託された可能性と夢が描かれるという、壮大で愛おしさに満ちた物語です。

近所のいつも通らない小道をふと通って見たら、いつのまにか遠い場所にさらわれ、翻弄されているうちに深い森に迷い込んだような、なかなかない読書体験でした。

命を産む、とは一体何なのか、長い間悩んでいたのですが、何かしらの救済が与えられたような、そんな気がします。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

化学メーカーの研究員・久美は、亡き叔母から先祖伝来の「ぬか床」を継承する。
ところが、「ぬか床」からは呻き声や不可思議な卵が発生し、遂には「人」まで湧いて出てきて……。「ぬか床」から起きる不思議な現象に導かれるように、久美は先祖の島へむ向かう。はるかな命の旅路、その最先端に立つ圧倒的な孤独と愛おしいまでの可能性を描く壮大な命の繋がりの物語。

おすすめポイント 

・命とは何なのか、性とは何か、に真摯に向き合った文学作品です。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

先祖伝来の「ぬか床」

主人公・久美は、母の一番下の妹である時子叔母が死んで、先祖伝来の「ぬか床」を受け継がなくてはいけなくなります。もう一人の妹の加世子叔母は、「ぬか床」は「呻く」のだといいます。

半信半疑で「ぬか床」の手入れをはじめる久美ですが、何故か「ぬか床」から入れた覚えのない卵が発生、なんとそこから”人”が湧いて出てきます

日常の風景に異物が自然に混入するファンタジックな導入は、本谷有希子の『異類婚姻譚』のような雰囲気を想起させます(『異類婚姻譚』のほうが後ですが!)。

幼馴染とぬか床から発生した”人”と間の奇妙な繋がりから、異性との関係性へのトラウマ善意が報われないことへの透明な哀しみその救済を描いた1章「フリオのために」はこれだけで短編として成立する完成度の高い章です。

自己複製の呪い

「ぬか床」は、時に、綿々と受け継けつがれてきた女性であることへの抑圧や、伝統やしきたりの名を借りて個人を支配しようとするもののメタファーとして扱われます。

故郷の沼に「ぬか床」を返そうとする久美と、それに猛烈に反対する加世子叔母との会話は、いかにも象徴的です。

ーただ、世話し続けてくれればいいだけなのよ……。

ーいやなんです。もう。

私は、吹っ切るようにいった。

ーそんな、無責任だと思わないの。今までずっと……。

ー何十人何百人何千人たとえ何万人でも、その数の人が過去にあのぬか床に支配されてきたからといって、それがどうして私自身を支配する理由になるんです? いやなものはいやなんです。

「ぬか床」は酵母や最近の絶妙な関係性により保たれたフローラであり、細菌は自己複製(クローン)、つまり”繰り返す”ことによって命を保つ生き物です。

”繰り返す”ことを強制し支配しようとするものに対し、主人公・久美は決然とNo!を表明します。

それは、私たち、人が”性”をもち、”繰り返す”のではなく、交じり合い新しい命を生みだすことを選んだ生命の末裔だからです。

「ぬか床」という日常のパーツから今や、壮大な命の営みへと話が展開していきます。

有性生殖と壮大な命の旅路

一番最初に、有性生殖を行った細胞の勇気を思うよ。それまでひたすら、一つのものが二つに分裂してゆくことの繰り返しだったわけなのに、そのとき、二つのものが一つになろうとしたわけだからね。自殺行為だ。

有性生殖、はこの作品の大きなテーマとなっています。

久美は、「ぬか床」の由来(=家族の来歴)を追い、時子叔母の知古・風野さんと出会います。

風野さんは、病気の母親に「二本の足で立てるぎりぎりまで食事をつくらせた」封建的父権的な祖父と父に反発し、男性や女性といった性そのものを捨てることを決めた男性でした。

男性性を否定する風野さんは、有性生殖による進化・繁栄の考え方にも否定的です。

ー進化? 進化なんかより退化、劣化の可能性の方が遥かに高い。どんどん悪くなる可能性もあるわけよ。優秀な両親の間に、彼らを上回る優秀な子が産まれたなんて話、滅多にあることじゃないわ。だとすればよ、調和的で平和を好む人々がいれば、その人たちの間でクローン再生産をした方が、人類はよっぽど明るい未来への展望が開けているわけじゃない。それが優性思想ってんなら、優性思想で結構よ。もう進化なんかまっぴらよ。繁栄もいらない。これ以上、どこへ行こうってのさ。

古代ひたすら自己複製を繰り返してきた命の中に、突如出現した”性”という自己破壊的な営み

”性”とは一体何のために存在するのか。

命とは何なのか。

私たちは、一体どこへ行こうとしているのか。

結婚・出産をせず、命を生み出すことをしない生き方を選んでいる主人公・久美と、性を捨てることを選んだ風野さんは、深い部分で共鳴し合います。2人は久美の一族の故郷の島、「ぬか床」がやって来た沼のある森に誘われていきます。

そこで2人は、はるかな命の旅路の最前線に立つことの震えるほどの孤独と、過去の誰でもないものになることを託された夢と無限の可能性を目の当たりにします。

”繰り返す”のではなく、過去の誰にも似ていない命が、過去の誰も通ったことのない道を歩むことを選択した、”私たち”という巨大な生命の意思、その壮大さに圧倒され、物語は幕をおろします。

読後、言いようのない感情に心揺さぶられました。

今回ご紹介した本はこちら

梨木香歩の他のおすすめ作品

rukoo.hatenablog.com

rukoo.hatenablog.com

『村田エフェンディ滞土録』梨木香歩 | 【感想・ネタバレなし】国とは一体何なのか。かけがえのない友と青春の日々を綴るトルコ滞在記

今日読んだのは、梨木香歩村田エフェンディ滞土録』です。

同著作の、『家守綺譚』『冬虫夏草』に登場するトルコ留学中の村田君が主人公です。

1899年、西洋と東洋の狭間の国・トルコに留学した村田君は、異教の友人らと議論したり、掘り出した遺跡に目を輝かせたり、鸚鵡の言動に振り回されたり、神様の喧嘩に巻き込まれたり、騒がしくも楽しい青春の日々を過ごします。

しかし背景には、不平等条約下にあった当時の日本や、跋扈する帝国主義の暗い影いずれ訪れる戦争の予感がしのびよります。

異国の友とのきらめくような日々を描き、イスタンブールという西洋と東洋が混じる不可思議な土地、その歴史の一場面のなかに、国とは一体何なのか、を読者に問いかける稀有な青春小説です。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

1899年、トルコ留学中の村田君は、鸚鵡の言動に振り回されたり、異国の友人と議論したり、神様の騒動に巻き込まれたり、賑やかで騒がしい。
西洋と東洋がせめぎ合うイスタンブールで過ごした、かけがえのない青春の日々。
私たちが所属する国とは一体何なのか、今に問う青春小説にして歴史小説

おすすめポイント 

第一次世界大戦目前の日々を青春小説として切り取ったなかなか無い小説です。

・読後、懐かしいような哀しいような言いようのない複雑な気持ちにさせられます。

・西洋的な考えと非西洋の考えの比較など、興味深い議論が多く、勉強になります。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

時代背景

舞台は、1899年のトルコ、イスタンブールです。

西洋では帝国主義が跋扈し、新大陸の国々が次々に植民地化され、日本は西洋諸国と結ばされた不平等条約改正に向け、国力増強の道を模索し前に前に進もうと躍起になっている時代です。

そして、1914年にはサラエボ事件に端を発する第一次世界大戦が待ち受けており、村田君がイスタンブールで異教の友人らと過ごした青春の日々は、大いなる戦争を目前とした束の間の安堵句をと言えるでしょう。

また、トルコと日本の仲を深めたエルトゥールル号の事件が1890年なので、村田君のトルコ留学もそれよって叶ったものかもしれません。

国際色豊かな登場人物

主人公・村田君は考古学を学ぶために派遣された学者で、イギリス人のディクソン夫人が営む下宿屋に居を構えています。

下宿屋には、他に、ドイツ人考古学者のオットーギリシャ人の研究者・ディミトリストルコ人の下男・ムハンマド、そしてムハンマドが拾ってきた鸚鵡が一緒に暮らしています。

西洋と非西洋、一神教多神教、理性と混沌

登場人物はそれぞれ西洋と非西洋一神教多神教理性と混沌を交互に複雑に象徴します。

一神教多神教という側面で見ると、キリスト教徒であるディクソン夫人とオットー、ムスリムであるムハンマド一神教にあたり、ギリシャ神話を背負うディミトリスと日本人である村田君が多神教の側になります。

しかし、オットーは神や信仰をあくまで近代的な歴史観のなかに捉えていて、神を唯一絶対の不可侵とするディクソン夫人やムハンマドの考えと時に衝突します。

また、葬式は寺、お祓いは神社と、いかにも日本人らしい宗教観を持つ村田君は、宗教間の違いを上手く説明できず困惑したりします。

また、混沌たる自然に対して支配的な(あるいは無視的な)”西洋たるもの”を根本に覗かせるディクソン夫人とオットーに対し、理論で説明できない巨大な闇を内包する”非西洋たるもの”を、ムハンマド、ディミトリス、村田君はそれぞれ背負います。

”違う”人間と友になるということ

同じものを見ていても、登場人物らはそれぞれ違った反応を示します。

特に次のエピソードがほほえましいなかにも、鋭く胸に刺さります。

雪の日、さんざん雪合戦をしたあと、オットーが高校時代の昔話を語るのですが。

ー俺たちのギムナジウムと隣町の商業科高校は、ずっと反目し合っていたんだが、何かの加減で比較的友好的な時代があった。休日に町を歩いていると、通りかかったアパートの窓から雪玉が投げつけられた。そのアパートは商業科高校の生徒の家だったことは皆知っていた。俺たちは一瞬緊張したね。挨拶としては随分手荒じゃないか。またもや宣戦布告か? しかし一人が素っ頓狂な声を上げた。「おい、キャンディーだぜ」崩れた雪玉の中から人数分のキャンディーが出てきたんだ。

ーいい話だなあ。

私は思わず感嘆した。

ーそう単純でないよ。投げられた雪玉にはやっぱり攻撃性があるんだ。

ディミトリスの物憂げな言葉の調子で、彼が眉間に皺を寄せているらしい様子が察せられた。オットーは、

ーそうなんだ。俺が感じたのは、そのときはまだ子どもではっきり言葉でそう思ったわけではないが、文化的な「したたかさ」みたいなものだ。それは、洗練、というものとはまた違う、泥臭い土着の知恵のようなものだ。戦略的、とでもいうか。

 似たようなことを言っているように聞こえるが、ディミトリは繊細で直感的、オットーがそれとはほど遠く、ただ単にどんなときでも理が先行するだけだ。そして私はと言えば、

ーいや、やはりいい話だ。僕は雪玉の中にあめ玉が仕込まれていた経験など全くない。うらやましい限りだ。

自分で言いながら、おめでたさに呆れてしまう。

これほど、違う考えを持った者同士ですが、3人は楽しく雪合戦をし、お互いを思いやり、尊重し、友情を育みます

オットーは遺跡から誰もが見逃していた遺物を発見した村田君を手放しに褒めたたえ、ディミトリスは村田君の病気の同輩のために醤油を手に入れ、偶像崇拝を忌み嫌うムスリムであるはずのムハンマドは、稲荷の札とキツネの根付に対し黙礼によって敬意を示します。

本当にこういうことだけ、こういうことだけ話していられる世界であればどんなに良かったか

最後に書かれるディクソン夫人から村田君にあてた手紙とその嘆きは、これからどうしようもなく悲しい報せを受けるたび、読者の胸に蘇るでしょう。

ああ、私はこういうことだけ延々に書いていたい。鸚鵡が何と言ったか、とか、オットーが何に笑ったか、ムハンマドがどうして腹を立てたか、そういう日常の、ごくごく些細なことだけを。

時代は、歴史は、異なる文化を超えて結ばれた友情を、親愛を、何もかもを引き裂き、ただ頑なに前へ前へと進んでいくのです

西洋と東洋の狭間の小さな下宿屋で、それぞれが違ったものを背負っていても、確かに尊敬と友情は結ばれたはずだったのに、なぜ、と問わずにおられません。

そして、本書が訴えかけることも、まさにそれなのでしょう。

私たちは、お互いを尊重できる。

しかし、それを時に切り裂いていく、”国”とは、一体何なのか。

読後、長い友を喪ったような放心状態にしばし囚われました。

今回ご紹介した本はこちら

関連書籍はこちら

村田君の学生時代の友人・綿貫が主人公の「家守」シリーズです。

rukoo.hatenablog.com

rukoo.hatenablog.com

 

『冬虫夏草』梨木香歩 | 【感想・ネタバレなし】家へ、帰ろう

今日読んだのは、梨木香歩冬虫夏草』です。

巻頭に、

新進文士かけだしものかき綿貫征四郎君、疎水に近隣ほどちか高堂なきとも生家いえもり委託まかされ、ため天地自然の気りゅうやらおにやらかっぱやら数多あまた交遊まじわりける日々あれこれを、先般さきごろ家守奇譚なる一書に著述あらわせり。に引き続きて同君わたぬき出来まきおこりたる諸椿事ことども自記しるしたるが本書なり。謹言。

とある通り、同著者の『家守綺譚』の続編にあたります。

全書が、家守の名の通り、琵琶湖疎水のほど近きに立つ亡き友・高堂の生家の家守となった”私”と、その周辺で巻き起こる四季折々の出来事を描いていたのに対し、本書は少し行動範囲を広げ、行方不明の飼い犬・ゴローを追い求め、滋賀の土地鈴鹿の山奥へ分け入っていきます。

滋賀県に多少の縁のある私としては、他人事とは思われず時に神意に感嘆し、時に情に打たれながら読みすすめました。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

湖で亡くなった友の生家を守る文筆家の”私”こと綿貫征四郎は、いなくなった飼い犬・ゴローを探し、鈴鹿の山奥へと踏み入っていく。
そこで出会ったのは、河童の少年、宿を営むイワナの夫婦、竜の化身、お産で亡くなった若妻、いつか出会った少女の面影を宿す老女。
生きとし生けるものが交じり合う不思議な土地を、清新で豊かな筆で描く。

おすすめポイント 

滋賀県が舞台なので、地縁のある方は一層楽しめると思います。

心洗われるような話、癒される話が読みたい方におすすめです。

家守綺譚』の雰囲気が気に入った方は気に入ると思います。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

神々と人、まじわる地

先の『家守綺譚』でも、疎水や琵琶湖や竹生島など滋賀県の土地に触れられていて、多少の地縁のある者としては楽しく読むことが出来ました。

本書でも舞台は滋賀県、更に行動範囲が広がり、主人公・綿貫は忠実なる飼い犬・ゴローを探し、鈴鹿の山奥へ分け入っていく先々で、さまざまな人や人ならざるものに出会います。

特に、ニヤリとしたのは綿貫とその友・高堂とのやり取りを描いた次のシーン。

晩秋、隣家のご亭主がこしらえた”柿の葉ずし”をお裾分けされた夜のこと、

龍田姫日枝ひえにおいでになったまま、なかなか動かれない。景色すぐれてよろし、とご満悦なのだが、紅葉が終わらぬ。

ーまたか。

ー吉野にお渡りねがわねばならん。何か、里心を誘うものを献上して。

嫌な予感がする。

ー狙いは吉野のすしか。なんと目ざとい奴だ。あれは明日、食そうと取ってあるのだ。明日まで待つがよろしいと、おかみさんが云うので。

龍田姫は、紅葉で有名な竜田山女神。

竜田山万葉集にも詠まれる紅葉の名勝で、龍田姫秋の女神としての神格も持ちます。

(現在は竜田山という地名はありませんが、女神をお祀りした竜田神社が残っています。)

そして、日枝ひえは琵琶湖の湖西、比叡山のふもとの日吉大社のこと。

前作『家守綺譚』で龍田姫は毎年の秋の挨拶に琵琶湖を治める姫神浅井姫のもとを訪れていました。

大津市日吉大社は、全国の日吉神社日枝神社山王神社の総本社で、神仏習合期に比叡山の興隆と共に山王権現として名を高めた大変格の高い神社です。

比叡山のある湖西地区は山地と湖に挟まれた猫の額ほどの土地で、緑深い山と雄大な湖の景観がすぐそこまで迫る大変風光明媚な土地です。

龍田姫「景色すぐれてよろし」と動こうとしないのも頷けます。

しかし、龍田姫が動かれないと、いつまでも秋が終わらないので、なんとか、吉野(奈良県)までお渡りいただかねばなりません。

(ちなみに吉野山も奈良の桜の名勝地で、春の吉野山、秋の竜田山と並び称される土地ですね。)

そこで、登場するのが、吉野出身の隣家の亭主がこしらえた”柿の葉ずし”です。

神々の世界から一転、急に人間世界の名物がにょきっと顔を出すところがいかにも微笑ましいです。

柿の葉ずしは、通常、初夏に柿の若葉に包んでつくられるものですが、吉野から紀伊にかけては晩秋の紅葉した柿の葉でもつくられるとのこと。

吉野名物の柿の葉ずしを餌に、姫の実家(本拠地?)である奈良に帰ってきてもらおう、という作戦です。

結局、せっかくお裾分けしてもらった”柿の葉ずし”の半分を、泣く泣く渡す羽目になります。

神々がもたらす四季と、人間の尋常の生活が、”柿の葉ずし”という他愛ない品で結びつく風景は、なんとも愛おしいものがあります。

おかみさんは、自分の柿の葉ずしが、秋をかしたことを知らない。

家へ、帰ろう

来い、ゴロー。手に負えぬ煩いは放っておけ。

本書の世界では、人間も動物も植物も、竜も河童も神も同じ地平線上に存在します。

綿貫の忠犬・ゴローがいなくなった経緯にも、どうやら神々の世界のややこしい事情が関係しているようだということが、薄布を透かして見るように薄っすら察することができます。

しかし、綿貫は、その透けて見える人の領域を超えた事情に易々と踏み入ったりはしません。

もはや人ならざるものの道に踏み込んだ友・高堂とはそこに違いがあります。

あくまで人間としての立ち位置に踏みとどまり、しかし、人ならざるものの世界を否定はせず、ゆるやかに見たままに物事を受け止めています。

きっと心から優しい人、清らかな人とはこういう人のことなのでしょう。

古代中国でいうところの”君子”とはこういう有様のことなのかもしれません。

千年行方不明だった川の主の再来に立ち会っても、河童の少年に出会っても、お産の亡くなった若妻の霊に出会っても、主人公・綿貫の目的は、ただ飼い犬・ゴローの無事を確かめ、家に帰ることなのです。

なので、この物語は精霊と人が交錯する土地を旅する冒険譚であり同時に、家に帰るための物語なのかもしれません。

来い。

来い、ゴロー。

家へ、帰るぞ。

今回ご紹介した本はこちら

前作の感想はこちら

rukoo.hatenablog.com

スピンオフ

家守綺譚』『冬虫夏草』の主人公・綿貫の友人でトルコ留学中の村田くんが主人公のお話です。

『家守綺譚』梨木香歩 | 【感想・ネタバレなし】友よ、また会おう

今日読んだのは、梨木香歩家守綺譚』です。

読んだ後に心洗われるような心地がする話というのがあって、中勘助の『島守』なんかがそうなのですが、この『家守綺譚』はそれにとても近いと感じました。

時代は明治、巻頭には

左は、綿貫征四郎の著述せしもの

とあり、湖で亡くなった友の実家の管理を任されることとなった”私”こと、書生の綿貫の徒然なる日記のような形式の文章となっています。

”湖”とあるように舞台が滋賀県なので、滋賀に(細々と)地縁を持つ私には嬉しい話でした。

滋賀にお住いの方は、一層楽しめると思います。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

売れない文筆家の”私”は、湖で亡くなった友が生い育った家の管理を任されることとなる。
四季折々の風に紛れてやって来るのは、犬、狸、サルスベリカラスウリ、長虫屋、果ては小鬼に河童や友の亡霊まで。
これは、亡き友の家守・綿貫征四郎の徒然なる記録。

おすすめポイント 

滋賀県が舞台なので、地縁のある方は一層楽しめると思います。

心洗われるような話、癒される話が読みたい方におすすめです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

旧きもの残る時代に

各章には、それぞれの季節の動植物の名前が冠されているのですが、「木槿」の章に、

先年、土耳古帝国からの死者を乗せたフリゲート艦、エルトゥールル号が帰国途中、和歌山沖で台風に遭い、船員650名中587名が溺死するという惨事が起こった。

とあります。

エルトゥールル号の事件が1890年(明治23年)の出来事だそうなので、この年は1891年(明治24年)ということになります。

また、文章中に幾度も効果的に登場する琵琶湖疎水の開通も、1890年(明治23年)4月の出来事です。

また、同年8月は、中央気象台官制明治23年8月4日勅令第156号)制定が為されているのですが、これを踏まえてみると、隣家のおかみさんの、

ー(略)この間の日照りの時も、気象学者なんていうのがしゃしゃり出て、気圧がどうたらこうたら云って、当分の間雨の降ることは絶対にない、一刻も早くダムをつくれとか云って、土地の神主が、その龍の祠に行って雨乞いの祈願をしたら、あっと言う間に黒雲が湧いて雨が降ってきたじゃないですか。学者なんてそんなもんですよ。土地の気脈とうものがまるで分っていない。

という言葉もフムと頷けるものがあります。

くさぐさのものども

文明の明るすぎる光と旧きものの理がせめぎ合う時代、と思うと、琵琶湖という巨大な古き湖は旧き者ものそのものであり、そこにつくられた疎水という人工の川というのは、如何にも象徴的です。

ーええ、そう、そういう土地柄なのですね。

”私”こと主人公の親友だった高堂はまさにその湖で行方不明となったのですが、ある風雨の晩、掛け軸のなかから、ふと姿を現します。

ーどうした高堂。

私は思わず声をかけた。

ー逝ってしまったのではなかったのか。

ーなに、雨に紛れて漕いできたのだ。

高堂は、こともなげに云う。

ー会いに来てくれたんだな。

”そういう土地柄”故に、主人公が住む家には、うつつもののから夢のようなものまで、亡き友の亡霊をはじめ、四季折々のくさぐさが交錯します。

事情通の隣家のおかみさん、飼い犬のゴロー、狸にカワウソ、”私”に懸想する庭のサルスベリ、カワウソの係累だという長虫屋、桜鬼、湖の姫神・浅井姫尊に挨拶に来た秋の女神・竜田姫の侍女の化身である鮎、などなど。

胸突かれる想い

本書で描かれている事象は、既に文明化された人間である読者の視点では摩訶不思議で理解不可能ですが、おかみさんをはじめとする土地の人間にとって、河童や人を騙すカワウソは、ごく平然と普段の生活の地続きにあるものです。

そして、新参者である”私”もいちいちびっくりしながらも、起こったことを起こったことのまま素直に受け入けいれることのできる稀有な精神の持ち主として描かれています。

おそらく、本書で描かれているように、科学という無粋な色眼鏡をかける前は、私たちももっと素朴で豊かな世界に生きていたのでしょう。

そこでは、何か私たちの忘れかけている言葉にできない、優しさやいたわりとしか言いようのないものが満ち溢れています。

湖の底の浄土に住まう人々のにっこりとした安堵の微笑みや、狸が化けた姿と分かっていても、背中をさすってやった”私”の慈悲の心や、お礼にと置かれた松茸を前にしたときの胸を突かれるような気持ち

私はなんだか胸を突かれたようだった。回復したばかりのよろよろした足取りで、律儀に松茸を集めてきたのか。何をそんなことを気にせずともいいのだ。何度でもさすってやる。何度でも称えてやる。

そして、湖の姫神・浅井姫のために奔走する高堂の語られない想い。

ー浅井姫尊とは何ものか。

ーこの湖水をおさめていらっしゃる姫神だ。

ー親しいのか。

私の質問に変な熱が加わっていたのか、高堂はそっぽを向いた。

ーお見かけしたことはある。が、住む世界が違う方なので親しいといわけではない。

そして何より、”私”が家守をしてまでその姿を待ち続ける亡き親友・高堂への想い。

……こは彼の君在りし日のゑすがた。

ながめいるはては彼の君ゆるぎ寄るかとぞ思ふ。

姿が見えたとしても、もう生きては帰らない、しかしうつつと夢の混ざり合う湖のほとりのこの土地で、友よ、また会おう。

切ないような、優しいような、泣きたくなるような、一つの森を抜けたあとのような心洗われる気持ちにしばし浸る美しい読書の時間でした。

今回ご紹介した本はこちら

続刊はこちら

rukoo.hatenablog.com

スピンオフ

家守綺譚』『冬虫夏草』の主人公・綿貫の友人でトルコ留学中の村田くんが主人公のお話です。

rukoo.hatenablog.com