『ベルカ、吠えないのか?』古川日出男 | 【感想・ネタバレなし】犬の系譜が語る異形の20世紀史、イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?
今日読んだのは、古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』です
2005年上期の直木賞候補作ともなった作品です。
相変わらず独特のビート感あふれる文体に身を任せるうち、4頭の犬から始まる20世紀の叙事詩にどっぷりはまこりこんでしまいました。
では、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
独特のビート感のある文体に、珍しい二人称小説、中毒性があり、はまる人ははまります。
犬の側面から20世紀史を創るという壮大な試みが意欲的です。
20世紀を犬の系譜で語る
1943年アリューシャン列島キスカ島に置き去りにされた軍用犬4頭(北・正勇・勝・エクスプロージョン)。
厳寒のキスカ島を生き抜いた犬たちは、米軍に拾われ、やがてその血統は縦横無尽に世界を覆っていきます。
イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?
軍用犬から始まる血統を追うことで20世紀を語る、という何でこんな話を思いつくのだろう、と思ってしまうほど壮大な話でした。
たった4頭からはじまった犬の系譜は、世界中で数々のドラマを引き起こします。
純潔の母と雑種の女王
個人的に好きなエピソードは、エクスプロージョンと正勇の系譜に連なる雌犬シュメールと北の系譜の雌犬アイスの話です。
純潔のシェパード犬として完璧な美を誇り、ドッグショーで「勝てる」子犬を生むためケージでケアされるシュメール。
北海道犬・シベリアン・ハスキー・サモエドの血を引き、野犬の女王として君臨する雑種のアイス。
シュメールはただただ純潔の子犬を産み、アイスはより多くの犬種と交わり、雑種の子犬を産みます。
交わるはずのない2匹の雌犬の運命が、ある日交錯します。
犬たちが時代を駆けていく様は、異様な迫力があります。
あまり見ない二人称で書かれた文章のせいでしょうか。
犬、という生き物がもつ獰猛さ・息の熱さが文章から立ち上るようです。
(略)だから、お前は察知する。「狩る側」の心理を察知して、あらゆる事情を了解する。お前はほとんど人間の動きを予知する。だから、駆除などされない。
ライフルが発射するのは無駄弾だ。
愚 カ者メ、とお前は言うお前はリーダー犬として、群れの仲間に告げる。アタシタチハ捕マラナイヨ。アタシタチハ走ルヨ。
野犬の女王として君臨したアイスは、徐々に人間に追い詰められ、あっけなく死にます。
残された子犬たちは、運命的にシュメールに邂逅します。
混交を繰り返したアイスの子どもを純潔のシュメールが母親として受け入れるシーンはドラマティックで感度的ですらあります。
そうだ、シュメール、お前が走る。
走っているのだ。
それから州道の道端にとどまっている七頭の仔犬が、幻の母親をついに見つける。
母親のアイスとは似ても似つかないが、たしかに庇護のために駆けつけてきた雌犬を、そこで迎える。
母は、来たのだ。
豊かな乳房を持ち、七頭を養える
母乳 を持ち、何より愛を持った母が。
宣戦布告
犬たちの物語と並行して、ヤクザの嬢がロシアで''犬''として覚醒していく様が描かれます。
軍用犬として、人間の道具として、利用され戦わされ翻弄された犬たち。
犬たちの数々の系譜は、20世紀は戦争の、戦いの世紀であった、と言いたげです。
著者が、ヤクザの嬢をなぜ''犬''の系譜に連ねたのか、私にはまだよく理解できません。
が、戦争の世紀の代償として、犬たちに宣戦布告されるラストは、どこかしら腑に落ちるものがありました。
今回ご紹介した本はこちら
古川日出男の他のおすすめ作品
『食堂メッシタ』山口恵以子 | 【感想・ネタバレなし】イタリアの料理を愛した清々しくたくましい女性シェフの半生を描く美味しい作品
今日読んだのは、山口恵以子『食堂メッシタ』 です。
婚活食堂のシリーズが地味に気になっているのですが、肩慣らしにと思ってこちらを先に読んでみることにしました。
食べ物出てくる話大好き人間としては、大当たりの作品でした。
では、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
出てくる食べ物がとにかくおいしそうなのがおすすめですが、深夜に読むことはおすすめしません!
さわやかな女性の成功譚が好きな方におすすめです。
稀有な女性シェフの半生
本書『食堂メッシタ』は二つの視点により進行します。
まず、メッシタの常連であるライターの笙子の視点、メッシタの主人である料理人・満希の人生、この二つが交互に語られます。
ライターの笙子が、稀有な店であるメッシタの主人・満希の半生を本にすることを申し出るのですが、このインタビューに答える形で満希の半生が語られる、という構図になっています。
1990年代に学生時代を過ごした満希は、友人の父親・大俵の経営するイタリアンチェーンでのアルバイトを通じて、料理人への道に目覚めます。
当時、イタリア料理は日本に根付いたばかり、日本人向けの味付けを施された店ばかりでした。大俵の経営するチェーンも日本人向けの味付けで、リーズナブルにイタリアンを提供することで成功していました。
アルバイト先で頭角を現す満希ですが、しかしじきに本物のイタリア料理を学びたいと志します。
後に、イタリアの調理師養成学校から帰国した満希に大俵は言います。
「分かるよ」
大俵は大きく頷いた。
「みんな本場の味を目指してるんだよ。フランス料理も、イタリア料理も、その他の国の料理も。ただ、今までは日本風にアレンジしないと経営が難しい面もあった。でも、これからはそれも可能になるはずだ。君の時代には……」
満希はその時、生まれて初めて「時代」という概念を身近に感じた。
このあたりの、時代に即したストーリーになっているところに説得力があります。
アルバイト先の社長が友達の友人でその伝手で留学まで出来た、というのは多少ご都合主義的ですが、もちろんそんな甘いことばかりでもなく、帰国後、満希ははじめて入ったイタリアン料理店「トラットリア・ジュリオ」を1年もたたず辞めてしまいます。
「トラットリア・ジュリオ」のシェフ・楠見は天才的ながら、人に厳しく、気に入らないと鍋を投げつけることもあります。
今だと完全にパワハラですね。
楠見のもとで、全く戦力にならなかった満希は、一度店をやめ、再びイタリアに武者修行の旅に出ることにします。
武者修行後、再び楠見の店に戻った満希は、対人スキルに問題のある楠見をフォローしながら、いつしか共同経営者とも言うべき立場に昇りつめます。
その後、独立し、開店したのが、「食堂メッシタ」です。
結構、さらっと書きましたが、行く先々での人々との交流や、行く先々で食べた料理の数々が細やかに描かれており、満希のたくましさ、すがすがしいまっすぐな性格に心惹かれること間違いなしです。
私の人生のお店について
私事ですが、独身時代、よく通っていたお店があり、メッシタはそこの雰囲気によく似ています。
そのお店はイタリアンではなくフランス系だったのですが、メニューの雰囲気や、女性一人でも入りやすかったこと、オーナーさんの接客などが、どことなく似ていました。
仕事がつらいときには、ちょっと高めのワインを飲んだり、秋にはジビエを食べに行ったり、今思えば良い独身生活でした。
なので、ライターの笙子が母親を亡くした痛みを「メッシタ」の料理が徐々に癒していく、というエピソードには大分感情移入してしまいました。
結婚して引っ越してしまったので、もう行くことはないのですが、たまに思い出してしまいます。
良いお店との思い出は人生の華ですね。
しかし、全編にわたり、イタリア各地方の郷土料理やその特色・背景が実に細かに描写されていることに驚きます。
イタリアは長く統一政府がなく、支配者がころころ変わったせいで、地方の特色が強いとは聞いていたのですが、これだけ細かにイタリア各地の料理を見せられたのははじめてでした。
今、この文章を深夜4時に書いているのですが、どんどんお腹が空いてきてちょっと後悔しています。
特に、メッシタの名物、生クリームが溢れるブッラータとプチトマトのサラダ、食べたーい!
深夜に読むことはおすすめしません!
今回ご紹介した本はこちら
食べ物が出てくる他のおすすめ作品
『楽園とは探偵の不在なり』斜線堂有紀 | 【感想・ネタバレなし】異形のSF×ミステリ なぜ探偵は謎を解かねばならないのかを問う作品
今日読んだのは、斜線堂有紀 『楽園とは探偵の不在なり』 です。
はじめて読む作家さんなのですが、2016年にデビューされ、本作で数々のミステリランキングにランクインしているすごい方のようです。
・早川書房 2021年版ミステリが読みたい!国内編第2位
・原書房 2021年本格ミステリ・ベスト10国内ランキング第4位
・宝島社 「このミステリーがすごい2021年版国内編第6位
すごいですね。
あらすじによると、2人以上殺した者は「天使」によって強制的に地獄に送られる世界で、まさかの連続殺人事件が起きる、というSF要素が盛り込まれたミステリのようです。
期待大です。
それでは、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
過去のトラウマに悩む探偵・青岸焦は大富豪・常木王凱に孤島・常世島の別荘に招待される。しかし、そこで、起きたのは、天使の集まる島で起こりえるはずのない連続殺人。犯人は、なぜ地獄に落ちずに犯行を重ねられるのか。
おすすめポイント
SF×ミステリが好きな方におすすめです。
ミステリ好きならくすりとくるジョークが各所に散りばめられているので、ミステリを読みなれている方にもおすすめです。
異形の世界観と論理のアクロバティック
SF×ミステリというと、かつては西澤保彦さんがよく書かれていたと記憶しています。『七回死んだ男』などは設定も論理のアクロバティックさも素晴らしくて、初めて読んだときは衝撃的だったのを覚えています。
本書『楽園とは探偵の不在なり』も、現実には存在しないルールの上で論理的に推理を構築する、という点が見所ではないでしょうか。
本書の世界では、5年前に突如、異形の''天使''が降臨し、2人以上殺した者が地獄の引き摺り込まれる、という現象が発生します。
''天使''が殺人者を裁く際のルールはざっとこんな感じです。
1.2人以上殺した者は''天使''によって即座に地獄に引き摺り込まれる
2.地獄行きになるのは直接手を下した者、間接的に手を貸した者は対象外
3.殺意がない場合(過失致死)の場合でも地獄行きの対象となる
2人殺せば即地獄行き、限られた登場人物、この制約の中で犯人は如何にして連続殺人を成し遂げたのか、読む前から読者の期待を煽る設定です。
こういう現実にはない設定を一からつくると、ともすれば、推理のためだけの設定になってしまい、現実から浮遊してしまいがちなのですが、本書では、人間の行動・超常的なルール・論理の3点が無理なく融合している点が、見事としか言いようがないです。
ペナルティとモラルの消滅
本書の素晴らしい点は、'''天使''という実際にはありえない存在を創ることで、逆に人間の姿を深く考察していることではないでしょうか。
''天使''が降臨してから、犯罪は二極化します。
2人殺せば地獄行き、というルールから、「1人までなら殺して大丈夫」と考える者と、「どうせ殺すなら多く殺した方が得だ」と考えるものが出てきてしまったからです。
これについて私は、行動経済学漫画『ヘンテコノミクス』の「保母さんの名案ー社会を成立させているのは、モラルかお金か」という話を思いだしました。
子どもを早く迎えに早く来てほしい保母さんたちが、「6時を過ぎてお迎えに来られた場合は超過料金500円をいただくことにします」というメールを流すのですが、予想に反し、時間に遅れる親が多くなってしまった、という話です。
どうしてこんなことが起こったかというと、超過料金という制度が導入されたことで、「お金を払えば遅れても大丈夫」という意識を引き起こしてしまったからです。
つまり、超過料金というペナルティが、遅刻に対する罪の意識を消してしまった、ということになるのですが、これはそのまま本書の構図に当てはまるのではないでしょうか。
「2人殺せば地獄行き」というある種のペナルティが課されたことで、本来あった「殺人は許されない」というモラルが消滅してしまったのです。
探偵の存在意義と正義
そんな世界で、本書の探偵・青岸焦は、深いトラウマを負った状態で登場します。
青岸は、自動車を使った無差別殺人により事務所の仲間4人を失い、そのときから探偵の存在意義と正義を見失ってしまいます。
そんな中、''天使''マニアの大富豪・常木王凱に招かれた孤島の屋敷で、起こりえるはずのない連続殺人事件が起こり、青岸は否応なく事件を巻き込まれていきます。
そもそも、2人殺せば''天使'が裁いてくれるのに、犯人を捜す意味はあるのか、そう思いながらも青岸は探偵の性として自然と捜査をはじめます。
なお、ワトソン役が物語が始まる前に死亡している点も、本書の特異な点といえます。
本書の中では3人の人間が自称ワトソン役を務めます。
捜査をすすめるうちに、青岸は、なぜ自分が謎を解かねばならないのか、探偵の存在意義は何なのか、という問いに向き合っていきます。
また、''正義''という言がは本書では頻繁に登場します。青臭い言葉です。
この青臭い言葉がどれだけ無力か、本書はいやというほど書き連ねます。
奇跡や神の祝福、かすかな救いも''現実''という名のもとにバサバサ切り捨てていきます。
しかし、このもはや誰も見向きもしないかもしれない言葉が持つささやかな光が、理解できない世界と戦う誰かを確かに支える様も、きちんと書ききっている点に、読者はは、はっと胸をつかれるのではないでしょうか。
本書の最後は決してハッピーエンドとは言えないですが、悪と対峙し、理不尽に立ち向かい、戦い切ったすべての登場人物に拍手を送りたくなるラストだったと私は思います。
今回ご紹介した本はこちら
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『シュガータイム』小川洋子 | 【感想】青春最後の日々・シュガータイムを透明な筆致で描く
はじめて読んだときは、そう心に残ったわけでもないのに、何故か何度も読み返してしまう本というのがありますが、本書はまさにそういう本です。
高校生くらいのときにはじめて読んでから、なぜか定期的に読み返してしまいます。
食べ物の描写が沢山出てくるので、食いしん坊な部分が刺激されているのか、淋しい夜を思わせる情景が懐かしく感じるのか。
ぜひ、手に取っていただきたい一冊です。
では、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
淡々と描かれる静かな夜の情景や、スーパーの食べ物一つ一つに魅力があります。
本書に出てくるスーパーマーケット「サンシャインマーケット」に行ってみたくなります。
主人公がパウンドケーキを焼くシーンの描写が見事。見所の一つです。
日常の中のささやかな異常さ
小川洋子の小説には「異常なもの」がよく登場しますが、本書でも大学に通う「わたし」の日常のなかにささやかな「異常」が紛れ込みます。
1.付き合っている恋人が不能であること
2.背の伸びない病気の弟
3.「わたし」の異常な食欲
1.2.については「わたし」はあまり気にしておらず、周囲の人間(母親・友人など)があれこれ口出しするのを疎ましく感じています。
そして、いつのころからか、「わたし」は信じられないくらいの食べ物を欲するようになり、食べたものを日記として残すことにします。
四月二十二日(火)
フレンチトースト四切れ(シナモンをかけすぎた)
セロリのサラダ 醤油ドレッシング
ほうれん草のココット
ハーブティー(口に残ったシナモンの香りを消すために)
草加せんべい五枚(ハーブの匂いを消すために)
ドーナッツ七個
キムチ百五十くらい(ドーナツが甘すぎて胸焼けしたから)
フランスパン一本(口の中がひりひりしたから)
ハヤシライス二杯
フライドチキン八本
ソルトクラッカー一箱
あんずジャム一口
これだけ食べても「わたし」は、食べる前と少しも変わらない、といいます。
私も高校生くらいのときはこれくらい食べていたような気もするのですが、今だったら絶対むりです。多分、「フレンチトースト四切れ」で一日終了します。
いくら食べてもお腹がいっぱいにならない、という現象は、ある種の寂しさを感じさせます。
著者の描く「異常さ」はどこか寂しく、慎ましやかとでも呼びたくなるような静けさに満ちています。
真夜中のパウンドケーキ
この小説を読むと途中で必ずパウンドケーキがつくりたくなります!
と断言できるほど、このシーンの描写は強烈です。
深夜、眠れない私は突如パウンドケーキをつくろう、と思いたちます。
砂糖を加えると、バターは若鶏の皮のようにぶつぶつしてくる。その甘さの粒がバターの脂にすっかり溶けてしまうまで、泡立て器を回し続けなければいけない。わたしの右腕は軽やかに回転していた。右腕だけが身体から切り離され、モーターを取り付けたようだった。少しも疲れていなかった。バターが全部蒸発してしまうくらい徹底的にかき回すこともできる気分だった。
描写は決して美味しそうではなく、むしろグロテスクとすら言えるのですが、なぜが、ぐっと目が引き寄せられてしまいます。ぶつぶつした砂糖の粒や、バターの脂が指に触れるようです。
孤独な春の夜の台所で静かに美しく焼きあがっていくパウンドケーキ。
詩情すら感じられる情景です。
サンシャインマーケット
本書の見所の一つが、主人公が通うスーパーマーケット「サンシャインマーケット」です。
いつも完璧に整頓され、すみやかに商品が補充され、数限りない種類の商品が揃うスーパーマーケット。
この完璧な店の中で、食事したり眠ったり思考したり笑ったり淋しがったりしたい、「私」は考えます。
「私」が恋人からの別れの手紙を開封する場所として選んだのも、このサンシャインマーケットでした。
静かな深夜のスーパーマーケットで、恋人がある女性と「シベリアの奥の小さな町の研究所」に共に行く、という非現実的な内容の手紙を読む、幻想的なシーン。
スーパーの照明や並ぶ食料品のパッケージの生々しい手触りまで伝わってくるようです。
主人公の青春が決定的に終わる瞬間でもあるこのシーン、大好きで何回も読み返してしまいます。
今回ご紹介した本はこちら
小川洋子の他のおすすめ作品
『ハイパーハードボイルドグルメリポート』上出遼平 | 【感想】衝撃の深夜グルメ番組の書籍版・食を追うことで見える咀嚼できない圧倒的現実
今日読んだのは、上出遼平『ハイパーハードボイルドグルメリポート』です。
テレビ東京の深夜枠として放送された異色のグルメ番組ですが、わたしはNetflixで昨年くらい?に見ました。
「ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ!?」をコンセプトに、世界のアングラな人々のリアルな日常と食を追った、なんというか、凄まじいとしかいいようのない番組でした。
この内容をよく放送できたなあ、とか言う前に、よく取材してきたなあ、と感服したのを覚えています。
書籍化されていたとは露知らず、たまたま書店で見つけたのを即買いしました。
番組では明かされない取材ネタとか書いてあると面白いな、ぐらいの気持ちで読み始めたのですが、もう!全然!そんなレベルの話ではありませんでした!
最初から最後まで、ガツンとガツンと食らいっぱなしで、読後はなぜか、清々しささえ感じてしまいました。超激辛な読書体験でした。
すげーな、これ。
では、あらすじと感想などを書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
脳内麻薬がドバドバでます。
刺激的な読書をお求めの方におすすめです。
書籍版と番組バックナンバーとの違い
書籍版は、番組のバックナンバーに比べ、収録されているエピソード(国)が少ないです。
・リベリア編
・台湾編
・ロシア編
・ケニア編
この四国しか取り上げられていません。
しかし、内容が濃い。濃すぎる。
考えてみると当たり前で、テレビは「撮れ高」が必要ですが、書籍には映像は必要ないので、「撮れ高」関係なく、起こったことをありのままに書けます。
もちろん、人が見て書く以上、本物の「ありのまま」なんていうものはあり得ないのでしょうが、著者の上出遼平さんの書きぶりからは、なるたけ事実のみを読者に伝えようという、心意気のようなものが感じられました。
人はどんな場所でもモノを食う!
しかし、この上出さんという方、読んでいるこちらがハラハラしてしまうほど、どんな危険な場所にでも、ずんずん突っ込んでいくし、聞きにくい質問はするし、読んでいてこっちの心臓が持ちません。
内戦の傷生々しいリベリアでは、戦地で少年兵が人肉を食べていた、という噂を聞きつけ、元兵士が住む廃墟(超危険)に突入していきます。
もちろん、刃物を持った集団に脅されたりしますが、なんとか切り抜けます。
ここまでで、小心な私などは、もうお腹いっぱいなのですが、
「皆さんは人を食べたことはあるんですか」
ー沈黙が訪れる。
そりゃ沈黙しかないでしょう。
こんな調子でいつ危ない目に合うか、気が気でありません。
なんというか何もかもがダイレクトというか、遠慮とかそういうものとは無縁な世界を終始見せ続けられます。
というより、著者が炙り出す人々の生活には、遠慮・憐憫・躊躇、そういった私たちが使い慣れてもう手放せないクッションのようなものが一切存在しません。
著者は、「彼ら」に尋ねます。
「どうしてここに暮らしてるんですか?」
「なんで戦いに参加したんですか?」
「そもそも皆さんはなんでマフィアになったんですか?」
「ここでの暮らしはどう?」
私だったら、と考えると、多分こういう質問はできません。
なぜなら、彼らの生活や人生が、悲惨で、汚くて、不気味で、理解不能で怖い、とはじめから思ってしまっているからです。
はじめからそう決めつけてしまっているから、その人に対峙しても何も言えないし、何も質問できないと思います。
悲惨で、汚くて、不気味で、理解不能で怖い答えが返ってくるのが怖いから。
彼らの、著者の質問への答えは明確です。
お金がない、親が死んだ、他に住む場所がない、生まれたときからそう決まっていた。
貧しく、親がなく、食べるために住むためには、犯罪に手を染めるし、ゴミ溜めにだって住む。
単純で理解しやすい図式です。
でも、単純で理解しやすい図式の裏には、一切の言葉を奪うような個人の体験の重さがあります。
「だからあんたみたいにここを訪ねてきた人に俺たちのことを知ってもらいたい。子どもを学校にやるチャンスが欲しい。俺たちはもう歳をとったから何も望まない。唯一の希望は子どもたちの未来だ」
フルトンは僕の目を見て続ける。
「誰かの助けが必要なんだ。子どもたちに食べ物と教育を与えてほしい。それだけが俺たちの夢だよ」
ケニア最大のゴミ集積所・ダンドラ・ゴミ集積所に25年住み着くピーター、
「生活はどうってこともない。だけど、俺は家族に会いたい。家族と一緒に過ごす時間だけが俺の幸せだったんだ。自分がこの先どうなるかわからない。だから、とにかく家族と暮らしたい」
著者の出会う人々は、それぞれに過去を持ち、時に戦い、時に法を犯し、そしてそれでも痛々しいほど未来に望みを持っています。
彼らの世界の正義やモラル、彼らの人生は一切理解不能です。
著者は、そういった現実をそのまま読者に差し出します。
巨大な現実だけがごろりと目の前に差し出され、咀嚼することも飲み下すこともできない、ある意味苦しい読書体験を強いられます。
しかし、哀しいことなのか、喜ばしいことなのか、人はどこでも飯を食う!
極寒のシベリアでも、マフィアが集う豪華な会食でも、有害な煙漂うゴミ山でも、そして、今キーボードを叩く私がいる日本でも、人はお腹を空かし、食べる。
どんな人間でも腹が空くし、生きるためには食べるしかない。
その事実だけが、私と「彼ら」を結んでいる。
あまりの理解不能さに、そうか、そのことだけ見せたかったのかなあ、とぼんやりしてしまいました。
著者の取材態度
著者は、テレビマンとして、言うなれば日本人の娯楽のために、「ヤバい人々の飯」を撮り続けているわけですが、そのことについて、自分の主張や言い訳をくだくだ書いたりはしません。
書かなくても、どんな危ない場所でも踏み込んで、カメラを向け続ける態度が、その姿勢や生き方を何より物語るからでしょう。
カメラを向けることが、一種の暴力であることを、著者はきちんと読者に提示します。
それだけに、終盤、自らの感情に揺れる箇所に胸を打たれます。
僕は取材をするときに、誰かを哀れむようなことだけはすまいと思っていた。実際、これまでのどんな取材でも、それは一度としてなかった。僕が僕自身と交わした牢固たる取り決めだった。
しかし、18歳のケニア人の青年が頭からゴミを浴びながら働く姿に、著者はつい憐憫の情が湧き上がるのを抑えられなくなります。
2015年に死去した詩人・長田弘は次のような詩を書いています。
100%のイエス、でなければ100%のノーという考えかたは、信じることができない。
あれかこれかという二分法の思考でことを簡単にすることは、
どんなにたやすくとも、たやすいぶんだけ、
言葉をうそハッタリにしてしまう。
言葉の材料は、51%のイエスと、そして49%のノーなのだ。
信じられるのは、49%のノーを胸に、51%のイエスをいおうとしている言葉だけだ。(長田弘 「感受性の領分」より)
哀れむことだけはすまいと決めていたのに、どうしても抑えることができなかった著者は、けれど、すぐにその気持ちを振り払います。
たどたどしい考えかもしれませんが、このルポルタージュが単なる娯楽を越え、確かな説得力を持って私たち読者に迫るのは、著者である上出遼平さんが、「49%のノーを胸に、51%のイエスをいおうとしている」からではないか、と私は思いました。
一人の妻として
著者の上出遼平さんは妻帯者でいらっしゃるそうですが、もし自分の夫がこんな危険な仕事をしていたら、と考えると、心臓が潰れるような気持ちがします。
事実、有害物質を吸って喘息になったり、現地人から投石されたり、クレジットカード落としたり、これらを受け入れる奥様の度量にいち妻として感服します。
ルポ中には、奥様のことは決して多くは書かれていないのですが、読んでいる間、ああ、きっと奥様に支えられて大変な仕事をこなされているのだろうな、と感じられました(特に、旅から帰って家で食事するとお腹を下す、というくだり)。
巻末、謝辞にこのように書かれています。
あと、自信を失った時にいつも勇気づけてくれた妻。
僕はあなたと旅に出たくて、この本を書きました。
いつも、ありがとう
ちょっと、照れくさそうな著者のお顔が見えるようです。顔知らないけど。
今回ご紹介した本はこちら
『かきがら』小池昌代 | 【感想】かきがら、がらがら。ざらざらとした言葉と生命の生温かい手触り
がらがら、がらがら、かきがら、がらがら。
近所の書店で、見つけました。
装丁があんまり美しいので思わず買ってしまいました。
ポップによると、本屋大賞一次投票から、そこの書店員さんが選んだ一冊、ということでした。
こういう風に、その書店ならではのおススメがあるのが、実店舗に行くタノシミですね。
では、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
あの音は、都市の、この世の崩壊の予兆音だったのだろうか。
現実のざらざらした荒い手触り、不穏な予感、塩辛い海。
パンデミック後の時の層を詩人の言葉で語る短編7編。
おすすめポイント
詩人でもある著者の独特のリズム感のある文章・美しい表現が読みどころです。
パンデミック後の不穏な日常、ぶつぶつした現実の手触りなどが、描かれています。
装丁がとにかく美しい1冊です。
美しい言葉のリズムと表現
どの短編も、不穏な空気や、生ぬるい海水を思わせる言葉で綴られています。
ストーリー云々より、詩人でもある著者が持つ言葉のセンスや手触りを楽しむ短編でした。
がらがら、がらがら、かきがら、がらがら。牡蠣の殻が落下する音、あれは都市の、この世の崩壊の予兆音だったのだろうか。
この「がらがら、がらがら、かきがら、がらがら」という言葉の連なりは、何度でも口ずさみたくなります。
無骨で孤独で塩辛く粗い、そんな舌触りの言葉です。
また、こちらの表現もお気に入りです。
人をごっそり抜いてしまうと、東京は血を失ったように青い貧血になった
詩人てすごいなあ。
生命の生々しさ
また、本書では、家族の脆いようで強い奇妙なつながりや、老いの何とも言えない不快さ、が繰り返し描かれます。
義理の年老いた「ハハ」と衝突しつつも、なあなあと暮らす私(「がらがら、かきがら」)。
嘘つきで乱暴な祖母にぶたれながら育つ孫娘(「ぶつひと、ついにぶたにならず」)。
祖母を置き去りにした海岸を息子と歩く「私」と、自分の棺舟を彫る老いた漁師(「古代海岸」)。
ここで描かれる老いた人間は、痴呆的で、小便の臭いがうっすら立ち込め、強情で、決して美しいものではありません。
老いる、ということが、装飾なくありのままの言葉にされています。
生きていれば老い、老いれば臭い、忘れ、いつか死ぬ。あまりの生々しさに圧倒されます。
生きよ、と背中をおす声
本書の語りは、人の老いをパンデミック後の退廃的な世界にオーバーラップさせ、混乱と絶望の後の、虚無と喪失、悪い未来の予感を描きます。
しかし著者は、その中に湧いてくるわずかな希望を私たちに見せます。
希望とは、馬鹿者の持つ幻想だろうか。だが希望とは、祈るような無力なことではなく、願望でもなく、確信なのではないか。そう、確信だ。必ず、わたしたちはたどりつける。いまよりよき場所へ。いまだかつて、わたしたちがとったことのない方法をもって。(がらがら、かきがら)
現実はいつも期待したほどでなく、予想外のことが常に起こる。それが良いことであろうと悪いことであろうと。悪いことのほうが、いつも少しだけ上回っているように感じても、実は良いことのほうが多い。世界が少しずつ崩壊を始めていたとしても、今日はまだ終わったわけではない。(聖毛女)
そして、最後の短編「匙の島」では、神話のような命の誕生が語られます。
島で生まれた赤ん坊の顔を覗き込んだ「フミ」は、そこに、古代の海から羊水の海へ、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類と続く進化の過程を幻視します。
生きることの反対語は死ぬことではない。生きることと死ぬことは裏返しの同じこと。生きよ、フミ。どこからか、やってきた声が、その時、フミの背中をどしんと突いた。(匙の島)
著者の描く生命は、生々しく柔らかく、まばゆいような色彩に満ちているようです。
生きよ、と私も背中おす声をどこからか聞いた気がしました。
今回ご紹介した本はこちら
『錆びた太陽』恩田陸 | 【感想・ネタバレなし】直木賞受賞後第1作 放射能汚染地域を巡回するロボットが目撃する人間の姿とは
2016年下期、『蜜蜂と遠雷』での直木賞受賞後の第1作目と銘打たれています。
初出は『週刊朝日』2015年6月~2016年3月まで連載されていたもののようです。
ちなみに、初回限定メッセージカードには恩田陸さんの直筆で、
(略)
私たちは、こんにち、とても不条理で嘘臭くて、もはや笑い飛ばすしかない世界に生きている。
この二人がどんな会話を交わすのか、二人が何をするのか、皆さんに目撃していただき、自分たちがどんな世界に生きているのか体感していただければ幸いである。
とありました。
私たちはどんな世界に生きているのか。うーん。重い。
では、あらすじと感想を書いていきます。
あらすじ
おすすめポイント
キャラクター性が濃く、設定もところどころクスリとさせる笑いどころが満載の作品。
しかし、コメディタッチながら、放射能で汚染された近未来という重い題材を扱っている点が読みどころ。
また、このまますぐドラマか映画にできそうなくらい、いきいきと情景が浮かびあがってくるような小説です。
本書『錆びた太陽』の登場人物
本書『錆びた太陽』には、人間と言える存在が、ヒロインの財護徳子(ざいごとくこ)一人しか登場しません。
彼女の他に登場するのは、放射能汚染地域を巡回・整備する超高性能ヒト型ロボット「ボス」とその仲間たちと、汚染地域を根城にするゾンビのような存在「マルピー」です。
ヒロイン・財護徳子の目的
物語は、財護徳子が、汚染地域に突然やって来るシーンからはじまります。
国税庁から来たという徳子に、何の連絡も受けておらず戸惑う「ボス」たち。
とりあえず、一応は人間である徳子の指示を受け入れることにします。
ネタバレになってしまいますが、実は徳子の目的は、「マルピー」に課税できるかどうかを調べることでした。
先に少し触れましたが、「マルピー」とは何らかの原因で、人間ではなくなってしまったゾンビのような存在です。
後に、「博士」と呼ばれる、かなり高次にコミュニケーションがとれる個体も登場しますが、物語序盤では、コミュニケートできるのか謎なうえ、がっつり人を襲う恐ろしい存在です。
復興予算も足りなくなっている現状、ゾンビにでも何でも課税したい、それが徳子の言い分です。
なんじゃそりゃ、という感じですが、本気も本気の徳子は、放射能汚染もゾンビもなんのその、「アンケートを取りたいから(ゾンビに)」という理由で、どこへでも首を突っ込もうとします。
人間を守らないといけない、という規則を課せられた「ボス」はそんな徳子の行動に始終振り回されることになります。
滑稽なまでの人間の愚かさ
ゾンビに課税できるのでは、と考える国税庁というのもお笑い種ですが、政府は更に、汚染地域のとんでもない「活用法」を強引に運用し始めようとしていました。
徳子と「ボス」は汚染地域を調べるうち、その陰謀に気が付きます。
その「活用法」とは、汚染地域を故郷とし、今は無理でもいつかは帰りたい、故郷を復興したい、と血の滲むような努力を重ねている人々を踏みつけにするものでした。
人間の徳子、ロボットの「ボス」、マルピーの「博士」は、政府の「活用法」を阻止すべく協力することにします。
「博士」はこう言います。
『いかにもジリ貧の、その場凌ぎの政府が考えそうなことだ』
そうズバリと言われては、徳子も苦笑するしかない。
『(中略)どうも、日本の政府や政治家には、今あるものでやりくりしようという頭がないようだ。子供が独立して家を出ていったら、小さい家に住み替えるとか、家計の規模を縮小しようと考えるのが普通だが、とにかく彼らは長いスパンで人生計画を考える気がさらさらない。使う人間もいないのに家を増築しようとする。彼らは上昇とか成長とかいう呪縛から逃れられない。とにかく、今目の前にカネが欲しい。今すぐ新しい家が欲しい。それだけだ。なんのためにカネが必要なのか。なんのための家なのか。決して考えない。そのせいでわざわざこんなことをする』
ゾンビに課税しようとし、汚染地域に更なる汚染を持ち込もうと画策し、それをゾンビにツッコまれる、これなんてブラック・ジョーク?という感じです。
徳子以外人間がほとんど登場しないにも関わらず(だからこそ?)、人間が愚かでどうしようもない存在であることが次々と浮き彫りにされます。
合歓の花に託された想い
「ボス」はじめ、汚染地域で活動するヒト型ロボットには、ロボット三原則を現実的に運用するための前提として次の項目が組み込まれています。
一、人間は、物理的にも精神的にも不安定な生物である。
二、人間は、利己的であり、しばしば過ちを犯す。
三、人間の取る行動は、必ずしも合理的でない。
この3つの事実を、私たちはあの日以来、痛感してきたのではないでしょうか。
しかし、この重いテーマをコメディタッチで描いた著者に、私は、人間というものへの苦笑い混じりの’’愛’’を感じずにはおれませんでした。
本書は、滑稽で醜いもはや笑うしかない人類にも、しっかりと救いを残してくれています。
ロボットの最終目標は、人類の利益に奉仕することである。
この言葉に恥じぬ人類でありたい、というメッセージが本書の救いのキーワードである「合歓の花」に込められている、と私は信じます。
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