書にいたる病

活字中毒者の読書記録

『朱色の研究』有栖川有栖 | 【感想・ネタバレなし】人を狂わせる魔的な夕焼けが支配する。意外な犯人とそこに至る精緻なロジックに驚嘆する本格推理小説。

今回ご紹介するのは、 有栖川有栖朱色の研究』です。

所謂「作家アリスシリーズ」 の長編で、1997年に刊行されたものです。

バブル崩壊直後の、あ~なんか不景気やな~、という落ち込んだ退廃的な雰囲気と、カミュ『異邦人』を思わせる世界の終わりのような焼け付く夕焼けが重なって得も言われぬ情緒が感じられる小説です。

また、著者の本格推理小説に寄せる哀しみに近い想いが、登場人物の口を通して語られる興味深い作品でもあります。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

英都大学の犯罪学助教授・火村英生はゼミ生の貴島朱美から、2年前の未解決殺人事件の再調査を依頼される。朱美は過去に家族を襲った火事のトラウマから、夕焼けやオレンジ色に対する恐怖心に悩まされていた。
ところが、調査をはじめた矢先に当時の事件の関係者であり朱美の伯父の山内陽平が殺害され、不可解な電話をもとに駆け付けた火村と友人で推理小説家の有栖川有栖はその第一発見者となってしまう。
犯人の挑戦に、2人は2年前の事件が起きた和歌山へと向かう。

おすすめポイント 

探偵と助手という王道の本格推理小説をお求めの方におすすめです。 

著者の本格推理小説に寄せる想いが切々と語られるのも見所です。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

本格推理小説に寄せて

本書のなかで、有栖が火村の教え子の朱美に、「たいていの推理小説の中で人が殺されるのは、なぜか」という問いを受けます。

これに対して、推理小説が持つ独特の切ないような興趣というのがあるんですが」と語ったうえで、

「人は、答えてくれないと判っているものに必死に問い続けます。(略)死者にも問う。私を本当に愛してくれていましたか? 私を赦してくれますか? 泣いても叫んでも、答えはありません。相手は決して語りません。それでも、また問うてしまう。ーそんな人間の想いを、推理小説は引き受けているのかもしれません」

推理小説が持つ独特の切ないような興趣」というのは実感的に理解できるような気がします。

謎が現れ、それを解いてみせる。

これだけの単純な様式が、なぜ長年にわたり人を魅了し続けるのか、不思議に思うことがあります。

ワクワクするような魅力的な謎が提示され、それが手品のようにスルスルと解き明かされるなかで、私たち読者はその華々しさを楽しみながら同時に哀しみに近い感情を抱きます。

そして、その哀しさに魅入られるように、もっともっとと謎を求めます。

合理的かつアクロバティックな推理が披露されるとき、私たちは一時的に人生のある種の哀しさから解き放たれたような気持がします。

そして、その一時的な解放を求め、更に複雑かつ精緻な謎を求め、本格という深い森に迷い込んでいきます。

本格推理小説などにのめりこむものは、皆等しくジャンキーなのでしょう。

不条理な焼け付くような夕景

本書は王道まっすぐの本格推理小説で、意外な犯人!という面では、大いに驚かされました。

ただ、他の読者が指摘するように、動機が少し弱いのでは、という面も確かにあります。

しかし、その不条理さこそ毒々しいオレンジ色の夕焼けに覆われた本書に相応しいものではないでしょうか。

「プロローグー夕景」で、まだ名も無き犯人は世界の終わりのような毒々しい夕焼けのなかで、ふと立ち止まります。

古人はこんな刻、道行く人々の間からひょいと洩れ聞こえてくる言葉をつかまえ、意味があるはずもないその言葉に運命を、何事かの吉兆を訪ねた。夕占という。

そして、雑踏から聞こえてきた暗示は、ぞくりとするものでした。

ばれるわけないって。

 

殺してしまえ。

 

ーえ?

背筋にぞくりと悪寒が走った。

その人物ー火村が戦うことになる殺人犯が、夕占のお告げを受け取った瞬間だった。

「魔が差す」というのはよく聞く言葉ですが、人智を超えたかのような圧倒的な夕景にさらされたその瞬間、犯人は魔に魅入られてしまったのでしょうか。

また、本書のキーパーソンで火村の教え子の朱美は、名前に「美しい朱」を冠しながら、「夕焼け恐怖症」という世にも奇妙な症状に悩まされています。

誰もかれもを飲み込んでいく”世界の終わりのような夕焼け”の魔的な描写には、酩酊するような奇妙な感覚、何があってもおかしくないような不条理さが満ちています。

この恐ろしい小説においては、犯人の動機も余人には理解しがたいものでなくてはいけない、そんな気さえしてきます。

これから、ものすごい夕焼けを見るとき、見蕩れるより先に、この物語を思い出し、ぞくっとしてしまいそうな気がします。

今回ご紹介した本はこちら

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『スウィングしなけりゃ意味がない』佐藤亜紀 | 【感想・ネタバレなし】どんな残酷な現実でも、スウィングするように自由に生きてやる。ナチ政権下のドイツを強かに生きる不良少年たちの輝かしい青春。

今回ご紹介するのは、佐藤亜紀スウィングしなけりゃ意味がない』です。

ナチ政権下のハンブルクで、敵性音楽のジャズに夢中になる少年たちの危うくも輝かしい青春と、何もかもを台無しにする戦争の滑稽さと狂気

あの狂気の時代にも、自分の感性と力をもって生きようとした若き命があったことが瑞々しく退廃的な文章と、登場するジャズのナンバーから伝わってきました。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

1940年、ナチ政権下のドイツ、ハンブルク
軍需会社経営者の父を持つブルジョワの少年・エディとその仲間たちは、金も暇もある青春を敵性音楽のジャズに費やしていた。
ゲシュタポの手入れがあってもへっちゃら、戦争に行く気はないし、兵役を逃れる方法はいくらでもある。
ゴキゲンな音楽とダンス、女の子とお酒があれば毎日ハッピー。
そんな享楽的な青春に、徐々に戦争の狂気が迫っていく。

おすすめポイント 

ナチ政権下のドイツを、敵性音楽のジャズに夢中になる不良少年の目で描くという、ちょっと変わった戦争小説です。

当時の権力の横暴さとその論理のくだらなさを、主人公の少年の冷静かつ皮肉な視線が暴いていく文章には、残酷な描写のなかにも、スカッとするものがあります。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

輝かしい不良少年たち

ナチス・ドイツについて書かれた小説や映画は当たり前だけれど大抵暗い。

しかし、この小説に描かれている少年たちの青春の輝きは眩しいほどです。

主人公のエディとその仲間たちは、敵性音楽のジャズに夢中で、家のプールサイドでパンチ片手にパーティーするわ、ゲシュタポの手入れが入って殴られたりしても全然懲りないわ、ユーゲントの僚友長はリンチにかけるわ、親が大物なことをいいことにやりたい放題です。

エディは、ドイツ人ではあるものの、ナチなんて大嫌いで、その馬鹿げた理屈にもうんざりしています。

これがまたすさまじく馬鹿な話だ。我慢して聞いてほしい。誰がユダヤ人か、という難問を突き付けられて、法律家たちは博士たちの素晴らしく馬鹿げた主張をなんとか法律の形に収めようとした。もとが馬鹿話だったので、出てきた法律もまた馬鹿げていた。

こんな調子なので、学校でも不良少年扱い、何度も補導されますが、本人は全然凝りません。

しかし、理知的で頭の回転が速いところがあり、ユダヤ人との混血のマックスやその従兄弟たちを何かと世話をやいたり、ユーゲントのスパイのクーを巧妙に仲間に引き入れたり、その行動は如才なくクールです。

やがて、不良少年たちは、ジャズの海賊版をつくり闇で流通させるという、見つかれば一発アウトの商売に手を染め始めます。

権力や暴力にビビらず、自らの感性を信じ、”不良少年”であること貫く彼らの背中には、危うくも輝かしい青春の光が宿ります。

奪うものへの憎悪

そんな彼らの上にも、戦争の狂気が覆うときがやってきます。

エディは遂に逮捕され、キツイ強制労働と暴力にさらされます。

他の少年たちが暴力に屈し、次々志願していくなかで、エディは両足の指が壊死するほどの労働のなかにおいても、頑として志願しません。

そんじょそこらの不良少年ではなく、エディという少年のなかには、権力の横暴さ、自由を抑圧する”そいつら”への激しい憎悪が燃え盛っているのです。

お前、は別に女のことじゃない。アディのことでもエヴァのことでも高い口紅の子のことでもない。マックスの婆さんをしなせベーレンス兄弟をUボートさせたもの。アディをラーフェンスブリュック送りにし、ぼくをここにぶち込んだもの。あの溝を死んでいく人間に掘らせているもの。お前のことだけを考える。出ても入っても、娑婆でもムショでも、アルスター・パヴィヨンのテラスで踊っていてもベルゲドルフにぶち込まれていても、ぼくにはわかる、ぼくがいるのは牢獄だ。月の下でも太陽の下でも、兵隊になるなんてあり得ない。模範囚になって個室に蓄音機を持ち込んでも、雑居房で雑魚寝してても、囚人を順に殺していく狂った牢獄を祖国とか呼んで身を捧げる奴なんかいるか? お前、お前、お前から逃れるまで、ぼくはお前のことを考える。夜も昼も。

でも、釈放された後でも、”そいつら”はエディを解放したりしません。

父親の工場では、収容所の外国人が働かされ、SSの曹長は何かと暴力を振るうし、やがて街は焼かれ、人が大勢死に、人の死に皆が鈍感になっていく。

エディはそんななかでも、仲間たちとナイトクラブの経営に乗り出し、音楽をかけ続けます。

抑えつけ、縛りつけ、根こそぎ奪っていく”そいつら”に抗うかのように。

どんな状況でも、強かにスウィングするように生きる若者、焼け焦げた大地に流れる音楽、遠い輝かしい青春の光。

最後の一文には、魂が撃ち抜かれるような感動をおぼえました。

今回ご紹介した本はこちら

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『異類婚姻譚』本谷有希子 | 【感想・ネタバレなし】夫婦という名のぬらぬらした生き物が日常の浅瀬をうごめく

今回ご紹介するのは、本谷有希子異類婚姻譚』です。

「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた」専業主婦の日々を軽妙なタッチで描いた話です。

結婚してまだ日が浅い身からすると、「夫婦」という名のもとにぐちゃぐちゃと混じり合っていく二人の描写にゾッとしてしまいました。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。 

あらすじ

 「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた」
専業主婦4年目の私は、ある日夫と自分の顔がそっくりになっていることに気付く。
夫は「俺は家では何も考えたくない男だ」と宣言し、バラエティ番組を一日3時間以上鑑賞し、不毛なゲームに熱中し、揚げ物に執着していく。
そして、いつの間にか、お互いの輪郭が溶け合い役割が不明確になっていく。

おすすめポイント 

 ちょっと変わった小説を読みたい方におすすめです。

 結婚に夢を持っている方に、是非、悪意を持っておすすめしたいです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

結婚という不可解な活動

本書の主人公の「私」は専業主婦歴4年。

私も結婚してまだ日が浅いので、つい感情移入して読んでしまったのですが、この「私」の「旦那」の描写は、なんだか両生類のように不確かで、ふにゃふにゃで、こんな奴と結婚するの絶対やだわ~、と思ってしまいました。

「俺は家では何も考えたくない男だ」と宣言して家でダラダラするまでは許せるんですが、妻の弟に家の雑事を押し付けて平然としていたり、道で痰を吐いてトラブルになって妻に「何とかしてよ」と丸投げしたり、しまいには、仕事にも行かず延々とゲームをしたりしはじめます。

なんだ、こいつ。

そして、しまいには、家事に手を出し始め、ここに至って、「私」と「旦那」の役割は逆転し溶け合い、どちらがどちらか分からないまでになっていきます。

でも、「私」も、怠惰で勝手な夫を、なんだかな~と思いながらも受容している風で、実は自分も安楽な専業主婦の座に後ろめたさを感じつつも居座り続けるという「旦那」によく似た行動を取っているので、まさに「似た者夫婦」なのでしょう。

この、「もう何も考えたくない」、果ては「もう無理して人の形をとっていたくない」という願望は自分にも根強くあるので、突然痛いところを刺激されたような不快感を覚えました。

是非、結婚願望の強い頭がファンタジックな方に読んでほしいです(自分だけイヤな思いをしていたくないので)。

日常に潜む異世界

ここからの展開がファンタジックで、楽なほう楽なほうに逃げる余り、専業主婦の「私」と同化しようとし、ついには人の形まで捨てようとする「旦那」に「私」は叫びます。

ー私になるんじゃなくて、あなたはもっと、いいものになりなさいっ。

本書を読んだ後「夫婦」って何だろう、と思い返すと、その言葉のあまりのあやふやさにゾッとします。

夫・妻という”日常”を当たり前のように受け入れてきましたが、それを支える柱は案外ふにゃふにゃで、私も、そのうち夫と同化していくのだろうか、と思うと、うーん、私も夫になるようりは、もっといいものになりたい、と思ってしまいました。

今回ご紹介した本はこちら

『ミシンの見る夢』ビアンカ・ピッツォルノ | 【感想・ネタバレなし】お針子の少女が垣間見る上流階級の秘密と真実。”縫う”という技術一つで力強く生きる女性の姿を描く。

今回ご紹介するのは、ビアンカ・ピッツォルノ『ミシンの見る夢』 です。

著者のビアンカ・ピッツォルノイタリアの児童文学の第1人者で、大人向けの作品は本書で3作目とのことです。

そのせいか、”19世紀末のイタリア”という異世界を描いた作品ながら、その語り口は夢と優しさに包まれ、上質のファンタジーを読むように、すっと物語に引き込まれてしまいました。

階級社会の色濃く残る社会で、貧しいお針子の少女が上流階級の家庭で垣間見た人々の秘密や、滑稽で残酷な真実を通して、一人の少女の成長”縫う”という創造性がもたらす自由のすばらしさを描ききっています。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

19世紀末のイタリアで身寄りのないお針子の少女は、亡き祖母から受けついだ裁縫技術で上流階級の家庭の仕事を請け負い自立して生きていく。
各家庭で見聞きした秘密や謎、驚くべき真実や試練を通して少女は成長していく。
そして、彼女自身にも人生の愛と試練が降りかかる。
”縫う”という技術一つで、自由に強く人生を渡り切った女性の姿を描く傑作。

おすすめポイント 

男性優位社会で女性が力強く生きていく様を描いた小説が好きな方におすすめです。

1つの家庭ごとに悲喜こもごものドラマがあり、ドラマティックな話やファンタジーが好きな方にもおすすめです。

 

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

”縫う”ということ 

著者による前書きに印象的な文章があります。

そして、私たちのために流行りに安価な服を縫ってくれる、今日の第三世界のすべてのお針子さんたち。私たちがほんの数ユーロで買い求める量販店のために服を縫う。別の人が裁断した、いつも同じ部分ばかり縫っていく一種の流れ作業で、お手洗いに立つ時間も節約するためにオムツまでして十四時間も縫い続ける。そして、最低以下の賃金を受け取って、工場という牢獄で火に巻かれて命を落とす。縫うとは素晴らしい創造的な活動だ。だが、こんなことはあってはならない。絶対に。絶対に。

本書の舞台は、階級社会の色濃く残る19世紀末のイタリアです。

家族をコレラで次々なくした少女は、祖母から受けついだ裁縫技術で日雇いのお針子の仕事をし、貧しいながらも自立して生きていきます。

まだ布が貴重で上流階級であっても、同じ布を何度も縫い直したり仕立て直したりして使い倒していた時代です。

主人公の手がける仕事は、ドレスのような華やかな仕事ではなく、日常的に使用する様々な布(シーツ、肌着、オムツ、etc)を縫ったり直したりする仕事が中心です。

決して豊かとはいえない生活のなかでも、彼女は向上心を失わず、文字を覚え、新しい縫製技術を身に着け、力強く未来を掴んでいきます。

そして、聡明で素直で誠実な彼女は、上流階級の女性の中でも信頼と友情を勝ち得ていきます。

イタリアだけでなく、世界中で刺繍や織物は女性の手仕事として、伝統的に受け継がれてきました。

その手仕事の芸術性は、しかしごく普通の日々のなかで生まれてきたものです。

女たちは、子どもを育て、食事をつくり、おしゃべりしながら縫物を、笑い、独創的なパターンを生み出し、時にはそれを売って家計の足しにしてきました。

”縫う”というただ一つの技術、この創造的な活動のすばらしさが本書では余すところなく描かれています。

女性の生き方として

本書には様々な女性が登場します。

主人公の味方になってくれる大地主の娘・エステル嬢。

エステル嬢の英語の家庭教師でジャーナリストのミス・ブリスコー。

吝嗇家の夫に悩まされるプロヴェーラ夫人とその二人の娘。

これらの女性たちは、裕福で素晴らしいドレスを身に着け、何不自由ない生活を送っていますが、同時に、父親や夫の一存で人生が決まってしまう危うさを秘めています。

一見、自由闊達に振る舞っている米国人ジャーナリストのミス・ブリスコーでさえ、その横暴な男性優位社会から自由でいられなかったことが、物語中で示唆されています。

特に、プロヴェーラ夫人の当時流行したジャポニスム風の桜模様の布を巡るエピソードは、当時の父権的社会が抱える滑稽で悲劇的な矛盾を、意外な角度から突く秀逸な物語です。

対して、主人公の少女は、貧しいお針子ですが、自分の技術一本で自立して生き、父や夫という鎖から自由でいられます。

”縫う”というただ一つの技術が、少女にいくばくかの自由を保障してくれるのです。

こういった極端な事柄は現代は減ったとはいえ、巧妙に更に見えにくい形になって残っているとも言えます。

私たち読者は、主人公の少女と一緒に、何もかも奪い去ろうとする”男たち”に憤慨し、奇妙な真実に驚き、愛について考え、そしてふと自らを省みます。

私たちは、社会規範という名のもとに、誰かから奪い、奪われていないか。

そして、私たちは、手を動かし、何かをつくることができているか。

本書を表す言葉は著者自身のこの言葉に詰まっています。

縫うとは素晴らしい創造的な活動だ。

今回ご紹介した本はこちら

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『乱鴉の島』有栖川有栖 | 【感想・ネタバレなし】王道の孤島ミステリ。精緻なロジカルと当時の最先端技術に寄せる著者の倫理的態度が融和する傑作

今回ご紹介するのは、有栖川有栖乱鴉の島』です。

所謂「作家アリスシリーズ」 の長編にあたり、孤島もののミステリに位置づけられます。

年代が2000年代初頭なので、携帯電話が一般的に普及しはじめたけれど、スマホはもう少し先、パソコンでインターネットを使用している人も半々という過渡期で、そこがまた味となっています。

孤島に引きこもる孤老の天才詩人とその崇拝者たち。

迷い込んだ探偵と助手。

ちらちら垣間見える秘密。

満を持して起きる事件。

これぞ、ミステリファン垂涎の王道の作品です。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

社会学者の火村英生は、休暇を取るため、友人である推理小説家・有栖川有栖を伴い、三重県のとある島を訪れる。しかし、船の手違いにより違う島に辿り着いてしまう。無数の烏の舞い飛ぶ島に住む孤高の老詩人・海老原瞬とその崇拝者たちに迎えられた火村と有栖川は、人々が何かの秘密を共有していることを嗅ぎ取る。そして、不穏な空気のなか、終に事件が発生する。

おすすめポイント 

孤島ものの王道ミステリが好きな方におすすめです。 

2000年代初頭のリアルな空気感を歴史的かつSF的に楽しめます。

エドガー・アラン・ポーの詩に対する文学談義などが盛り込まれている点も面白いです。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

ネットの普及と孤島ミステリ

今や全世界を覆うネットの普及により、”孤島もの”は小細工を弄さないと描けない天然記念物化しているのでは無いかと思います。

先日ご紹介した2020年に刊行したばかりの、『楽園とは探偵の不在なり』も、SF的世界観を導入することで、”孤島”を実現させています。

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本書『乱鴉の島』が刊行されたのは2006年、携帯電話は一般的に普及したもののスマホはまだ先、パソコンの普及率は68%ほどという非常に微妙な時期に描かれた作品です。

火村とアリスも携帯電話を所有している描写はあるものの、訪れた烏島にあるパソコンはただ一台だけ、事件発生後、パソコンを調べるシーンで、登場人物の一人が、インターネットエクスプローラーの履歴を調べるところまで思い至らなかった」等の発言をするなど、今では到底考えられないシチュエーションです。

そして、この一台しかないパソコンとそこから繋がった未だか細いネットの線が、物語で重要な役割を果たします。

まさに、ネットが”孤島”を浸食しようとする寸前を切り取り、更にそれを逆手に取った貴重な作品ではないでしょうか。

2021年の私たちは、この作品を過去の遺物ではなく、歴史的に、またはSF的に楽しむことのできる贅沢な時代に生きていると言えるでしょう。

クローン技術によって描かれる永遠と愛

本書のなかでもう一つ重要なキーワードにクローン技術があります。

本書が刊行された前年の2005年は、韓国で「ヒト胚性幹細胞捏造事件」が発覚し、不法卵子の売買、論文の捏造、クローン技術に対する倫理的問題が噴出した年です。

もし、クローン技術により愛する人を蘇らせることができたら自分を複製し永遠に生きることができたら、という問いは、この時代ごく自然であり、それでいて、あまりにグロテスクで生々しいものだったのでしょう。

一方、エドガー・アラン・ポーと最愛の妻であり従妹であったヴァージニアとの関係に重ねて描かれる、老詩人・海老原瞬とその夭逝した妻に寄せる哀切の念、「短すぎた」という一言に込められた万感の思いはミステリという枠を超えて人の心を打つものがあります。

本書で、クローン技術は永遠を、愛は刹那的な生を象徴しているように感じます。

愛と永遠に対する先の問いに対し、本書は登場人物の一人の医師の口を通してこう語ります。

ゾウリムシのように細胞分裂をして永遠に自己を複製する生物は、他者と出会わないのだから、愛も憎しみも知らない。それこそが永遠だ。愛を知るのは、永遠から切り離されて一瞬を生きる者だけ。一瞬を生きる哀しみと苦しみは、一瞬を生きる幸せと喜びを保証してくれる。そう信じる。信じても哀しくて、それでも信じる。

いかにも良心的で善良な著者らしい言葉だと思います。

本書では、ミステリ的な精緻なロジカルによる犯人当てと、インターネット、クローン技術という最先端の技術の倫理的問題に向ける著者の態度が見事に融和した稀有な作品です。

ぜひ、一度堪能していただきたいです。

今回ご紹介した本はこちら

 

『JR高田馬場駅戸山口』柳美里 | 【感想・ネタバレなし】子供を守ろうとすればするほど行き場所を無くしていく女。居場所のない魂が行き着く先とは

今回ご紹介するのは、柳美里JR高田馬場駅戸山口 (河出文庫)』です。 

2020年度全米図書賞(National Book Awards 2020)の翻訳部門を受賞した『JR上野駅公園口』が連なる山手線シリーズの一作です。

そちらの感想はこちら↓

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本書は2012年に『グッドバイ・ママ』というタイトルで刊行、新装版にあたり現在のタイトルとなりました。

夫は単身赴任中で子どもと二人、育児ノイローゼに陥った母親の辿る孤独と悲劇を描いた小説です。

ごく普通の母親が足元の暗闇に飲み込まれていく様子は、ゾッとするものがありますが、同時に著者の”居場所のない人々”への限りない祈りにハッとさせられる物語でもあります。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

ゆみは一人息子のゆたかの育児に追われる母親。
育児に熱中するゆみの態度は、幼稚園やマンションの自治会との間で軋轢を生んでいく。さらに、単身赴任中の夫には女の影があり、ゆみは孤独を深めていく。
そして、追い詰められた女はある決断をくだす。

おすすめポイント 

ごく普通の人間が、ふとした拍子に社会から孤立していく過程がリアルで怖いです。 

子育て中の方は、ハッとさせられるシーンが多いと思います。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

子供を守ろうとすればするほど孤立していく母親

主人公・ゆみは息子のゆたかに愛情を注ぐごく普通の母親です。

しかし、その行動は徐々に偏執的になっていきます。

放射能汚染されていない”安全な”食べ物を探すことに熱中し、子どものお弁当には”放射能に効くらしい”玄米や子供の発育に良い食べ物を詰め込みます。

ただ、幼い息子には玄米を噛み切れず、お弁当はほとんど残されてしまっているという現実からは目を背けています。

”子どもの足に良い”靴を高値で購入し履かせていますが、ゆたか自身はその靴が履きにくく、いつもビリになってしまうから、「みんなと同じがいい」と訴えますが、それも無視してしまいます。

また、幼稚園の正座教育に過剰に反発し、各方面の専門家にジャーナリストを名乗って取材したりと、その病的な行動から幼稚園側との確執を深めていきます。

そして、どうやら母親のそういった行動から、ゆたかは幼稚園で友達ができずにいることも示唆されています。

また、子育てに熱中しすぎるゆみには、ママ友がおらず、夫も単身赴任中、またマンションの自治会とはゴミの問題を巡って対立関係にあります。

子どもを守ろうとすればするほど、子どもにとっては迷惑極まりない行動をとってしまい、社会から孤立していく母親の描写がリアルで、「そっちに行っちゃだめだよ!」と小説の外から叫びたくなるような焦燥感があります。

居場所は本当になかったのか

絶望とは、まだ体験していない未来に疲れることである。(「新装版あとがき 絶望的な日々に求める……」)

ゆみの悲劇は、”自分には相談する人が誰もいない”と思い込んでしまったことだと思えてなりません。

ゆみはの両親は幼いころに離婚、父親とは16歳の時に死別し、母親と妹の連絡先は分かりません。

そして、義母には、「息子の嫁として認められていない」と感じ、距離を置いています。

そして、当の夫は単身赴任中。

しかし、本当に彼女に居場所はなかったのでしょうか。

もし、幼稚園の母親のなかに友人ができていたら。

もし、マンションの自治会に少しでも顔を出して友好関係を築いていたら。

もし、気まずくても義両親に「助けてほしい」と言えていたら。

もし、母親と妹を探し出し助けを求めていたら。

沢山の”もの”が虚しくこだまし、山手線という閉じられた円環のなかにゆみの魂は吸い込まれていきます。

現実に疲れ切ってしまうと、まだ訪れぬ未来にも疲れてしまう、それが絶望だと著者は言いたいのでしょうか。

この禍に満ちた世で、育児という大事を背負う人々が、毎日少しでも心軽くなる瞬間が訪れていることを祈ってやみません。

今回ご紹介した本はこちら

柳美里の「山手線シリーズ」

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『台北プライベートアイ』紀蔚然 | 【感想・ネタバレなし】台湾発のハードボイルド探偵が連続殺人事件を追いかける。この面白さは読まないと分からない!

今回ご紹介するのは、紀蔚然『台北プライベートアイ』です。

原題は『私家偵探』。

台湾人が書く私立探偵小説なんて、面白そうな予感しかしない!とビビっときて、そのまま夢中になって一気に読み上げました。

ジャンルを問われれば、”ハードボイルド”としか言いようがないのですが、著者の描く台北の街の描写や、シニカルな台湾人観が混じり合い、イギリス的でもアメリカ的でも日本的でもない、独自の世界観が広がっています。

また日本をはじめとする諸外国の犯罪者と台湾の犯罪者の比較など興味深いトピックスもあり、一粒で何粒も美味しい小説でした。

それでは、あらすじと感想を書いていきます。

あらすじ

劇作家であり演劇学部の教授である吾誠ウーチェンは、若い頃からの鬱病パニック障害に悩まされ、妻との関係も悪化、しかも、酒席で出席した演劇関係者全員を痛罵するという失態を演じてしまう。ついに教職も演劇の道もなげうち台北の裏通り臥龍街」に居を移し、私立探偵の看板を掲げる。何とか一つ目の依頼を解決した吾誠ウーチェンだったが、何と台北を騒がす連続殺人事件の容疑者となってしまう。自らの疑いを晴らすためには、真犯人を探し出すしかない。監視カメラの網の目をかいくぐり、殺人を続ける犯人の驚くべき正体と目的とは!

おすすめポイント 

台湾人から見た台湾の生の風景が楽しめます。

主人公をはじめとするキャラクターが個性的で、台湾独特の人間関係の機微も相まって独特の面白さがあります。

ハードボイルドであるものの、謎解きの楽しさを残した本格的な推理小説でもあり、意外な犯人に驚かされます。

なるべくネタバレしないようにしますが、気になる方はご注意ください。

キャラクターの面白さ 

この小説の魅力はまず主人公のキャラクターにあります。

演劇学部の教授かつ割と著名な劇作家である主人公ですが、実は若い頃から鬱病パニック障害強迫性障害などに悩まされ、妻との関係も悪化中。

自分の内面の問題で散々苦しんだ挙句、酒の席で、出席者全員に暴言を吐くという失態を演じ、恥じ入った末、全ての職を辞し、裏町で”私立探偵”をはじめます。

理由は「人助け」

うだつの上がらない中年男の都落ちのような描写とは裏腹に、近隣住民の車の当て逃げ犯を鮮やかに推理して見せたことや、一つ目の依頼を解決に導く手際の良さから、読者はこの吾誠ウーチェンなる主人公が、ただならぬ頭脳と行動力をもつ人物であることが分かってきます。

また、この主人公は、人間嫌いの厭世家のように振る舞っているくせに、子どもに英語をタダで教えてあげたりと意外と世話焼きで、次第に周囲に人の輪が広がっていきます。

舎弟的存在でおっちょこちょいだけど憎めないタクシー運転手・添来ティエンライや、臥龍街派出所の人の好い警察官・小胖シャオパン吾誠ウーチェンが子供に英語を教えている阿鑫アシン一家。

彼らは、吾誠ウーチェンが連続殺人の容疑者となり逮捕された後でも、疑うことなく味方になってくれます。

この台湾人的親愛には、皮肉屋を気取る主人公もつい嘯いてしまいます。

台湾人はなにかというとすぐに、兄弟じゃないかとかなんとか、感傷的なことを言うので、おれはずっと反感をもっていたのだが、彼らが惜しげもなく親切にしてくれるものだから、おれもついに、いわゆる「光輝き、これからの人生を照らしてくれる真実の暖かい心」を見出してしまったかと思ったほどだ。

周囲に励まされながら、真犯人を突き止める覚悟を決める主人公は、遺されたかすかなヒントをつまみ上げながら、一歩一歩真相に肉薄していきます。このスリル!

そして、判明する意外な犯人!

登場人物の立場の明確さもあり、もしかして犯人は序盤で登場していないキャラクターじゃないだろな?、と疑っていたのですが、見事に出し抜かれました! 脱帽です。

シニカルな台湾人観と日本に対する興味深い眼差し

本書は台湾人が台湾のことを書いているので、その描写は皮肉なユーモアに包まれています。

例えば、

台湾では赤信号は「突っ込む準備をしろ」という意味で、緑は「そら、突っ込め」、黄色は「まだ突っ込まないのか、この馬鹿たれ!」という意味なのだ。

そんなアホな。

また、台湾の犯罪について、他ならぬ日本と比較して書いている興味深い箇所もあります。

主人公によると、台湾の殺人犯のほとんどが「衝動型」で、動機も「金・痴情・恨み」の三種類だけだと言います。

あるの社会欄の記事から、二件の殺人事件(一方は別れ話のこじれ、一方は美人局への復讐)を引き合いにだし、同日の日本の連続殺人事件と比較させます。

同じ日の日本を見れば、連続殺人事件が決着したという記事がある。容疑者は二人を刺殺し、一人にケガをさせた後、自首した。動機は、三十四年前に保健所が、自分のペットを察処分し、そのうえ、今に至るまで毎年、なんの罪もない五十万匹の動物を殺していることに憤慨したというものだった。

主人公はこの日本の事件の「動機の抽象性のレベルの高さ」に恐ろしくなったといいます。

つまり、台湾の犯罪はある意味牧歌的で、日本やアメリカ、イギリスの有名な連続殺人犯を生むほどの土壌が無い、というのです。

また、社会秩序を重んじ、規律を強いる社会ほど、それを乗り越える”犯罪”が起きやすいと指摘し、日本を「アジアの国々のなかで、連続殺人事件の数がトップ」と名指しします。

日本人が酒を飲んだ途端に無礼きわまる醜態をさらすことはよく知られている。

よく知られているのか……。なんだかすごく恥ずかしい……。

こういった台湾のリアルな声を聴くことは新鮮な感動があるし、日本人が持つ病的な偏執性を外側から言い表されるのも、なんだか痛気持ちいい気分です。

なんというか、私たちは自分たちが思っているほど、キチンとした人間とは思われていないのかもしれませんね。

お酒を飲んだときは、注意しよう!と決意しました。

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